2022年3月6日日曜日

回想と渋滞情報

   五木寛之氏は著書『捨てない生きかた』の中で『人生後半期は記憶という自分が生きてきた証(あかし)、またその時代を呼び出す「豊かな回想のとき」だ』と述べておられるが、私が小さいころ住んでいた堺という街は、中世の「黄金の日々」から後も、文化の薫立つ都会であった。

 時代がまだ「戦後」と呼ばれていた頃は「堺駅」(元龍神駅)のすぐ西側に海が迫っており、東洋一の水族館のあった大浜は今のディズニーランドのような行楽地であった。

 その後豊かな海はコンビナートに代わり、私自身堺を転出し「故郷は遠きにありて思ふもの」の境地でいる。

 それでも、百舌鳥古墳群のことや打ち刃物やくるみ餅などなどの話題がテレビであると、懐かしく見てしまう。郷愁というか、こういう感情は理屈ではないところがある。

 自動車を運転される方はお分かりだろうが、ラジオは頻繁に道路情報、渋滞情報を流してくれる。そしてシバシバ「4号湾岸線大浜付近渋滞」の注意がアナウンスされる。

 私はというと、暮らしていた頃は4号湾岸線も阪神高速堺線もなかったのだが、そして泉州の大幹線・国道26号線も今とは異なっていたのだが、ただただ「大浜」という地名だけに反応し郷愁がよみがえってくる。

 一般に、世の中は効率化だとかで学校が統廃合されたり地名が変更されたりすることがままあるが、それは人生の豊かな回想をやせ衰えさせることにならないか。ラジオでは渋滞の名所・大浜だが、私によみがえるのは殷賑極める水族館と海水浴場だ。

 戦後の豊かさを支えたインフラが経年劣化し更新が待ったなしになっている。環境にツケを回してきた気候、エネルギー、さらにはアジアの非核・平和共存外交も放置できない。そういう時代に、旧態依然とした万博というイベントで「高度成長時代の夢」を見て、さらにIRという賭博を奨励する。あるいは不当・不法なロシアの侵略行為に悪乗りして核兵器の共有を語るというような地方自治行政でよいのか。

 「昔はよかった」というだけの年寄をかばうつもりはないが、口先では目新しい「ことば」を打ち出しはするが、結局は弱肉強食の古い経済を称揚し、空虚なトリクルダウンを説く維新のような発想こそ思考停止だと思う。

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