壁画は1972年3月26日に発表され、29日にはカラー写真が特報され、当時は考古学に興味もなかったがそれでも私は「俄古代史ファン」になったことを思い出す。
その後、ひょんなことで発掘の主人公網干教授と同じ街に住み、折々に関係するお話などを聴くチャンスを得た。
そんなもので、息子が大学受験を考える際には「実学なるものより、役に立ちそうもない学問の方が面白くないか」とアドバイスをし、結果として息子は史学を選択したが、親のアドバイスとして適切であったかどうかはわからない。
さて、高松塚古墳というと被葬者は誰かというのが一つの大きなテーマとして残っている。
被葬者の有力候補と、死亡年、年齢・・主な研究者名は次のとおりである。
天武天皇 686年 65歳・・吉永登
蚊屋皇子 ??年 ??歳・・有坂隆道
百済王善光693年 ??歳・・今井啓一 司馬遼太郎 千田稔
高市皇子 696年 43歳・・原田大六 大浜厳比古
弓削皇子 699年 ??歳・・梅原猛 菅谷文則
忍壁皇子 705年 ??歳・・直木孝次郎 王仲殊 猪熊兼勝 小笠原好彦
紀麻呂 705年 47歳・・岸俊男
葛野王 705年 ??歳・・和田萃
石川麻呂 717年 78歳・・岡本健一 秋山日出雄 勝部明雄 白石太一郎
以上の諸説の中で私は、石川麻呂説と忍壁皇子説を有力と考え、未だに意見をまとめ切れていない。
左大臣正二位石川麻呂は、平城京遷都にあたり藤原不比等によって旧都藤原京の留守番役にされて亡くなり、正一位を追贈されている。壁画の衣服や蓋(きぬがさ)等と矛盾はない。物部の氏の上として不比等に当てつけるように氏の総力を挙げて豪華に飾ったという説には魅力がある。また、養老令(の儀制令)では蓋(きぬがさ)について、皇太子は紫の表、蘇方の裏、錦を覆い。親王は紫の大きゆはた。一位は緑とあり、壁画の蓋(きぬがさ)の緑の総(ふさ)と合致する。
忍壁皇子説は、石川麻呂が正一位追贈の官僚(左大臣)であってもそこまではできないだろう皇子クラスの豪華さであり、その土地、飛鳥は蘇我氏の本拠地、隣接する檜前(ひのくま)は東漢(やまとのあたい)の地であったが、後に天武陵が築造されたように天皇家の土地と言え、物部氏が築造できる場所でない。
また土地は他の幾つかの古墳同様藤原京の中心線の南にあり平城京遷都(710年)以前に築造されている。海獣葡萄鏡は704年に帰国した遣唐使により持ち帰られたと思われる。壁画の着衣等を見ると、下着は「ひらき」で親王以下の官人は着用を禁止されていたが大宝令(701年)で復活しているのでこれ以降。衿は左前であるが、養老3年(719年)に右前に定められているからこれ以前。これら、図像、副葬品、土器から、結局704年から710年の間に築造されたもので、遺骨からは壮年以上と考えられるので、忍壁皇子となる。(総(ふさ)の緑だけが引っかかるが)
【注】忍壁皇子は天武天皇の皇子。壬申の乱では草壁皇子とともに名が挙げられている。持統天皇時代は不遇をかこっていたが、文武天皇4年(700年)6月に藤原不比等らと大宝律令の選定を命じられ翌大宝元年(701年)8月に完成させた。大宝2年(702年)12月に持統上皇が崩御すると、若い文武天皇の補佐を目的に、大宝3年(703年)正月に知太政官事に就任して太政官の統括者となる。天武天皇の最年長の皇子であったことから、最有力の皇族として重んぜられた。慶雲2年(705年)5月7日薨去。
プーチンが核に言及してウクライナ侵略を推進している時期にこんな夢の世界の思考に時間を費やしていてよいのかという自責の念もあるがお許し願いたい。
0 件のコメント:
コメントを投稿