山極寿一・小原克博著『人類の起源、宗教の誕生』(平凡社新書)を読んでいるうちに「ゴリラに学べ!・・身体なきリアリティの幻想」というくだりがあり、著者二人は「現代の人間は視覚以外の五感の機能が低下している。人間の生きる意味は、抽象的な意識の問題ではなく、体を通じて初めて生きる意味も感じられる。宗教の視点でいえば、教義などの要素もあるが一方で身体作法が重視される。体に覚えさせるということで、それは現代の都市生活では日常的にはほぼ失われている」という趣旨の論を展開されていた。
私は小さな小さな菜園で遊んでいるが、その作業は全くリアリズムの世界だと思う。
仮にゲームで「野菜作り」をするとすると(そんなゲームがあるかどうかは知らないけれど)、途中で失敗したら再起動すればよいだろうが、リアル農作業で失敗すれば再起動は来年にしかできない。己が年齢を考えれば、失敗できる回数も非常に限られている。
水やりにしても害虫退治にしても、今日明日必要な対応は明後日では意味がない。
そういう意味で自戒を込めて言うならば、集まりへの出席にしても、ニュースの原稿にしても、「ゲーム野菜作り」では許されるがリアル農作業ではありえない「一線」というものがある。
かくしてリアル農作業を身体作法にすれば、都市の民主運動もパワーアップしそうな気がする。
偉そうなことは言えないが、その本は「人間の生きる意味」について語られていた。
都市のインテリゲンチャの皆さん! 目的意識的に土に親しみませんか。
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