新刊の発売日に「ご注文の書籍が入りました」と書店から電話があってワクワクしながら出かけた。
小笠原好彦著『検証 奈良の古代遺跡』吉川弘文館。
選挙後の少々落胆していた気分を吹っ飛ばそうということもあって、一気に読み進んだが、高松塚古墳の被葬者のところで、ムムムと考えた。
詳細は省くが高松塚古墳の築造時期が7世紀末から8世紀初めであることについてはほぼ定説となっている。
その上で著者は、壁画の人物群の各種威儀具は「貞観儀式」に記すものと一致する。
続日本紀大宝元年(701)正月元日条の記述とも共通する。
人物着用の下着の褶(ひらき)は天武11年(682)に親王以下の着用が禁止されていたが、大宝元年(701)の大宝令で復活しているので、年代の上限は大宝元年(701)になる。
着衣の襟は左前であるが養老3年(719)に右前にするよう命令が下されているので、少なくともこの表現は養老3年(719)以前のこととなる。
さらに蓋(きぬがさ)の四隅から総(ふさ)を垂らしているが「養老儀制令」ではそれができるのは皇太子、親王、一位および大納言以上に限られる。
また副葬品の海獣葡萄鏡は粟田真人ら遣唐使が持ち帰ったものとみなされ、それは慶雲元年(704)以降に副葬されたであろう。
以上の条件から絞られた候補としては、高い身分の皇子、高位の官人、百済や高句麗の滅亡前後に亡命してきた王族が想定され、具体的には高市(たけち)皇子、忍壁(おさかべ)皇子、弓削(ゆげ)皇子、長(なが)皇子、穂積(ほづみ)皇子、石上麻呂(いそのかみのまろ)、紀麻呂(きのまろ)、百済王善光(くだらのこにきしぜんこう)となるが、7世紀の有力氏族(高官)はそれぞれ氏族の本拠に古墳を築造しているし、高松塚が天武持統陵近くということからも、慶雲2年(705)に没した忍壁皇子が残り、遺存した人骨や歯牙の「壮年以上」にも合致する。・・・と結論付けている。
そこで私がムムムと引っかかったのは蓋(きぬがさ)と総(ふさ)の色が緑色だということである。
先にあげた「養老儀制令」では、皇太子は紫の表、蘇方(すは)の裏、頂き及び四角に錦・・、親王は紫の大き纈(ゆはた)、一位は深き緑、・・・である。
そして養老元年(717)に78歳で没した石上麻呂(いそのかみのまろ)は従一位を追贈されている。
時あたかも藤原の世が着々と固められていく中で、徐々に冷遇されていった物部氏が総力を挙げてこの古墳を造ったとは考えられないか。
私の意見の多くは白石太一郎氏の説によっている。
古代史は不思議だらけでああ楽しい。が、もう一つ解らない。
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