NHKの籾井会長が「慰安婦の問題はどこの国にもあった」「政府が右ということを左というわけにはいかない」と言ったり、百田経営委員が田母神氏の応援演説に立ち「南京大虐殺はなかった」と言ったことについて、私は非常に不愉快に思ったが、昨秋に書かれたという長谷川三千子経営委員の「野村秋介氏への追悼文」には、それらとは全くレベル(質)の違う怖さをぞぞーっと感じた。
解釈は不要だろうが、氏は、「野村秋介氏は、『日本国憲法が何と言はうと』現御神(あきつみかみ=現人神)である天皇に、その死をささげた」と、右翼テロリストを礼賛しているのだ。
氏はまた、日本最大の右翼団体、国粋主義者団体ともいわれる(wikipedia)日本会議の代表委員でもある。
私は、個人が右翼思想を持とうが国粋主義を信じようが自由だと思う。
しかし、テロを礼賛し、天皇を再び現人神に祀り上げようと主張する人が公共放送の経営委員に相応しいとは思わない。否、それは社会にとってとても危険なことだと思う。
氏を経営委員に任命した安倍首相の責任は重い。
よく、「安倍内閣はアメリカ言いなり財界言いなり」と言われたりするが、それに止まらず安倍首相の現憲法否定の主張と行動は、戦後保守党政治が踏み越えなかった一線を越えた全体主義指向だと見なければならない。
私たちは、「もう今さら全体主義もないだろう」と判ったような顔をして語らない方がよいと思っている。
* 三島事件の四十三年祭の動画を追加しました。
私も恐ろしいものを感じました。特に、彼女が戦後生まれであるにもかかわらず、わざわざ旧仮名づかいでこの追悼文を書いていることに言いようのない違和感を覚えます。昨日、受信料不払いの通告をしました。
返信削除ひげ親父さん、コメントありがとうございます。
返信削除戦後第一期生の私などは、現代仮名遣いの模範生のようにどっぷり浸かっておりますが、大野晋氏や丸谷才一氏の唱える歴史的仮名遣いの意義も少し認めております。
現代では、ベトナムはアルファベットを、韓国・朝鮮はハングルを、中国大陸は簡体字を採用し、ヨーロッパ等表音文字圏の人々も含め、一部の学者しか古典を読むことができなくなりつつあります。庶民がなんとなくのレベルであっても古典を読めるのは台湾と日本ぐらいです。これをある意味大事にしたいと思っています。
さて氏は、「自らの死をささげることが神=天皇への絶対の奉納」だと主張していますが、八百万の神々は怒ってはいないでしょうか。これは、長い日本の歴史の中で明治から終戦までの期間にだけ唱えられた絶対主義的天皇制を支えたイデオロギーでしかありません。
氏は、言論機関たる新聞社に拳銃を持って乗り込んで自殺したテロリストを、そういうイデオロギーで礼賛したのです。ひどいことです。