2月11日、古代史の勉強ではなく近代史の勉強のために橿原神宮を訪れた。紀元祭である。
神武天皇陵は古事記と日本書紀が異なった地を記している。
近世幕末には3箇所が候補地であったが、文久3年(1863年)に孝明天皇の鶴の一声で現在地が指定された。
以下・・・・、
明治6年(1873年)に1月29日を紀元節と指定。(日本書紀が神武天皇即位の日とする辛酉(かのととり)1月1日に対応する日)
明治7年(1874年)この年から2月11日に改定。
明治22年(1889年)2月11日、大日本帝国憲法発布。学校での大規模な紀元節奉祝儀式本格化。
明治23年(1890年)橿原神宮創建。
・・・ということであるから、これらは文字どおり近代史である。
そして、現代からそういう近代への復古を主張する運動の中のメーン行事が橿原神宮の紀元祭ではなかろうか。
テレビニュースで戦闘服や軍服姿の隊列行進がよく映されるあれである。
勅使と御幣物の入場を眺めながら、多くの参列者の動機を考えてみたが私にははっきりとは解らなかった。
早く逝った父は、そういう時代(戦前)に神職の資格か位を持っていたらしい。
父の持っていた笏は今私が持っている。
父は戦後の時代にそれをどう思っていたのだろう。あまりに小さかった私にはそれも全く解らない。
戦後、何も語らなかったということは痛恨の思い出だったのだろうか。
願わくば、この笏が、近代のあだ花の様な場所でなく、古く懐かしい神々の前で用いられていたことを祈りたい。
というような負の近代史について語っていることと していることが支離滅裂ではないかとお叱りもあろうが、三本足の八咫烏(ヤタガラス)のお守りストラップがあまりに可愛いので求めてきた。
孫が来たら鞄に付けてあげよう。
彼は、戦(神武東征戦)の先導者という以前に、そもそもが道教の太陽の化身なのだから。
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