🔳 明治維新のとき大和國鎮府総督が廃仏毀釈の音頭に乗って、大仏殿をブッ飛ばしてやろうと大仏殿の正面に大砲二門を置いたとき、近くに住んでいた中山忠愛朝臣が「我は中山大納言なり、先ず我が身より撃て」と立ちはだかったところ、勤王藩士は公家の名を聞くや恐懼して退散した。
この逸話に因んで奈良の人吉村長慶が、大砲を踏み押える石灯籠を東大寺に寄進したのだが、太平洋戦争敗戦時、進駐軍基地や施設の設けられた奈良や東大寺において「大砲付きの灯籠は不適切だろう」と東大寺が灯籠の下部を土中に埋めて今に至っている。
故に灯籠の文字もさらには寄進者の文字も不自然に「吉村長」で切れていて、台座の下部は全く埋められている。🔳
さて先日、大仏殿に行って驚いた。ここ数か月、大仏殿前のこの灯籠周辺を含む広場の整備工事をしているのは知っていたが、その結果、この灯籠には新たなコンクリート製の土台が増強されていた。場所ももしかしたら若干移動したかもしれない。確かに元の灯籠の土台あたりが欠けたりしていたからいろんな「気遣い」があったのかもしれないが、一旦掘り出したのならどうして大砲(横向きの石の円柱?)を元どおり見えるようにしなかったのだろう。
吉村長慶は新興宗教を唱えたりしたから関係者?はいろんなことを蒸し返されたくないという気持ちがあったのだろうか。そうだったとしたら面白くない。
吉村長慶については、2019年3月30日【二聖よ起きよ】でも大要次のことを書いた。
🔳 吉村家は、奈良町の徳融寺の檀家総代であったらしいが、ここの山門を入ってすぐの『世界二聖・大日如来像』という大きな石のレリーフは吉村長慶が昭和12年に建立したもので、なんと、釈迦 と十字架を背おったキリストが横臥し、マント姿の吉村長慶が二人の間に割り込んで「あなた方が寝ている時ではない。はやく起き上がってこの世の乱れを救ってください」と胸をゆすっている。讃文は「軍馬の嘶(いなな)きは則ち国を亡ぼす」である。終戦まで寺では、讃文が官憲の目にふれると大変なことになると、レリーフ全体を板で囲って秘仏としていたと。🔳
現代世界は、釈迦もイエスもマホメットも起きよ!と言いたいほど乱れている。この国もガムシャラな軍拡路線に舵を切った。
そんなとき思うのは、東大寺の歴史も奈良時代だけが大切なのではない。近現代のこんな歴史の一コマ・・大砲を踏みつけた灯籠もちょっとした歴史だろう。せっかくの工事の機会があったのだから元の形で灯籠を復活させてもよかった気がする。
[以前の写真]
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