ご飯茶碗が欠けたので新しいものを購入した。こういう属人器はあらかじめ購入しておくものでもないだろうから、いざというときには「とりあえず」ということで手近なところで手軽に購入してしまうことが多い。写真のそれはそういうものである。だいたい私の箸置の5分の1以下だった。
飯茶碗というと「一膳めしはあかん」と昔から言われてきたが、近頃はそれ(習わし)はそれとしてわが夫婦は健康の為もあるし、何よりも食も細くなってお代わりなしの一膳めしである。
「一膳めしはあかん」というのはきっと枕飯に通じるからだろうと思って念のため調べてみるとそうではなく、同じ葬儀ではあるが、参列者が一杯きりの飯を食う習俗である「出立(でたち)の膳(別名一膳めし)」であるからというのを知った。ただ、そういう儀礼は実際には出くわしたことがないから意外であった。
それよりも、同じ言葉の一膳めしというのには、江戸時代から昭和の戦前まで「食べ放題ではない飯屋」を一膳めし屋という意味があって、実際に今でも「一膳めし」と称する食べ物屋があるのを知った。
私などは、先のとおり「一膳めし」という言葉には不吉な名残(受ける感覚)があると感じていたからこれには驚いた。
少し関連した話だが、お代わりをするときにはご飯を食べきらずに少し残したお茶碗でお代わりをしたものだ。これも習わし。
現職の頃にはいわゆる社員旅行があったが、各自がお代わりを仲居さんに頼むのだが、忙しいときにはどうも返ってきた茶碗が変わっているようなときがあり、あまり気分のいいものではなかった。
冒頭に書いた属人器であるが、この器は誰々のものという恒常的属人器である。世界的には共用器のみの国も多く、日本は銘々器(その食事中は個人に属する=一時的属人性)と(恒常的な)属人器の多さが特徴というか特異であって面白い。世界中で日本と朝鮮半島が頭抜けていて、東アジア文化の源泉のような中国にはそれがないというのもさらに面白い。
わが家でも偶にしか使用しない子や孫の茶碗や箸は決まっている。不合理ではあるが、そうでないと落ち着かないのもおかしなものである。

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