このブログの10月3日の記事で、学術会議会員任命拒否問題が朝ドラ『エール』の描く昭和18年頃とシンクロ(同調)することを述べ、朝ドラでは【(古関裕而)の妻(役名は音(おと))が「みんなの心を楽しくさせる音楽」と発言したことに対して、音楽挺身隊リーダーが「時節柄音楽は軍需品である」と述べて音を「非国民」と指弾した】ことを取り上げた。
志村けん扮する山田耕筰はその音楽挺身隊の隊長だった。
そして古関裕而は、ドラマの上では妻の逡巡にも気づかず、次々に軍歌などを作曲し、その影響を受けた多感な大勢の子どもたちは軍国少年に育っていった。
ところで私は、翌10月4日の記事で【このドラマから古関裕而の純粋さというか鈍感さを「正しく」批判し、「みんなで戦時体制の危険性を再認識しよう」と書くには若干の躊躇がある】と書いた。
【戦時歌謡を量産した古関裕而を現代人が批判することは容易い。批判は正しい。同時に批判には度量も必要だ・・戦時中は戦意高揚の曲を量産し、戦後は戦後で長崎の鐘をはじめとする名曲を量産した古関裕而は、見事にあの時代の多くの日本人の典型なのかもしれない】とも書いた。なお、古関裕而の自己批判に至る地獄の苦悩はその後のドラマで大きく取り上げられた。
以上は『前説(まえせつ)』で、これから述べる本日のメーンテーマは音楽挺身隊の隊長であった山田耕筰(1886年明治19-1965年昭和40)である。
11月22日の朝日新聞に吉田純子編集委員の【「軍に加担」朝ドラの山田耕筰像に思う】という小論が掲載された。要旨を以下に摘んでみると、
■ドラマではあるが山田耕筰を権威主義的な悪代官と印象付けたのは罪深い。■
■(主語が吉田編集委員?か音楽評論家片山杜秀氏?か判りにくいのだが)「戦争に積極的に協力するポーズをとることで、軍人からの干渉を牽制する。そうして若い仲間たちが前線に送られるのを阻止する。音楽の未来を守るための賢明な戦略だったというべきでしょう」バリトン歌手の故畑中良輔氏も「音楽挺身隊がなければ、どれほど多くの音楽学生が兵隊にとられ、命を失い、日本の音楽文化の発展に影響を与えていたことか」と語っていた■と書いて、■戦意を鼓舞する曲を書いた、歌ったと己を責める『エール』の登場人物たちの苦しみはそのまま山田耕筰の苦しみでもあったはずだ。戦後、「どうか勇を剣にかえずに、科学にかえ芸術にかえてください」と山田耕筰は書いている■と結んでいる。
正直にいうと、この小論の気持ちは判るが、そこまで言うと、私が冒頭述べたような躊躇を超えてしまう。戦時体制の山田耕筰や音楽挺身隊が果たした負の側面(ある意味それが正面かも)も踏まえなければ歴史を見誤ると思う。朝ドラのシナリオの浅さ狭さを指摘するあまり、音楽挺身隊の美化に通ずる文脈には賛同しがたい。ただ、古関裕而と対比させて悪代官としてしまうのは全くよくなく、その指摘は正しい。
次いで、吉田記事にも出てきた音楽評論家片山杜秀氏の山田耕筰論で私が改めて気づかされたことは、交響曲やオペラ等々の音楽の流れは別にして、山田耕筰の有名な歌曲や童謡の作られた時期が非常に偏っていることの驚きだった。列挙すると、
1922年(大正11)「曼珠沙華」「六騎」「かやの木山の」
1923年(大正12)「ペチカ」「待ちぼうけ」「あわて床屋」
1924年(大正13)「かえろかえろと」
1925年(大正14)「からたちの花」
1927年(昭和2) 「赤とんぼ」「この道」
以上、見事にそれは、いわゆる大正デモクラシー、そして童謡や児童文学の「赤い鳥」運動とぴったり重なるではないか。それは芸術も又大いに歴史に規定されていることを物語っている。「平和なくして芸術なし」というのは単純であろうが大事な視点ではある。
片山杜秀氏はこうも綴っている。
「1950年代中葉の東京の砂川での反米基地闘争で民衆が『赤とんぼ』を斉唱しつつ座り込みを続け官憲を圧した。 『赤とんぼ』こそ、民衆の共感を幅広く得、連帯の力になる歌という共通認識があった」と。
社会や人間を語るとき、単純にレッテルを張ってはならない。芸術も同じ。同時に芸術や学問さえも権力者の強力な道具や露払いになる(つまり庶民に対する凶器になる)ことも忘れてはならない。
もう一つ、近代史を思い返してみて、人間は(自分はと読み替えて)弱いと認めることが大切なように思う。鷲田清一氏の『折々のことば』2002は「常に小さな火から始まるのです。そして闘えるのは、火が小さなうちだけなのです。太田愛」を紹介している。自分には直接的でない(一見そのように見える)圧制や統制も、いざというときにはもう危ないのだ。山田耕筰や古関裕而の時代からそういう真理を学んだ気がする。見て見ぬふりほど毒素の多いものはない。