2019年11月16日土曜日

漆胡樽(しつこそん)と対面

けっこう大きなものである
   少しファミリーにアクシデントが続きブログまで手が回らなかった。
 そしてブログ記事を書くことも一旦途絶えるとどことなく調子が狂って手に付かず、そんなもので、少しリハビリの調子で再開したい。(ブログ記事を書くというのはテーマの選択や文章の構成力などということよりも、私の場合は、第一義的には相当な気力が必要)

 前説(まえせつ)はそれぐらいにして・・、気儘な風神もさすが古都の仏たちの前では律儀と見えて、正倉院展の終了をもって南都の秋が終わり、空気は冬のそれに入れ替わった。

 今年の秋も正倉院展の横は度々歩いたが、毎回「〇〇分待ち」「最後尾」のプラカードを持ったスタッフまで長い行列ができていた。素直に言えば社会の成熟だろうか、それとも「特別協力:読売新聞社」の威力だろうか。

 その読売新聞は、私の知る限り毎回「正倉院展特別版」という号外風の新聞をつくり入場者は無料で手に入れられるようになっていて、そこにはいわゆる「今年の目玉」が紹介されている。
 今年のそれを紹介すると、紺玉帯残欠、鳥毛立屏風、納御礼履、赤漆文懽木御厨子、礼服御冠残欠、紫檀金鈿柄香炉、金銀花盤、平螺鈿背八角鏡、螺鈿紫檀五弦琵琶、白瑠璃碗であった。

 そのせいか、全体に混雑している中でも「目玉」のコーナーは特に混んでいるのだが、反対に、漆胡樽は「目玉」として紹介されていなかったせいか、大きなコーナーのけっこう大きな宝物にもかかわらずあまり混雑はしていなかった。人々は、ふむふむと説明を眺めてさあーっと通り過ぎて行っていた。
 溢れんばかりの情報社会に操作され実は情報が見えなくなっているという、これが現代社会の特徴なのかもしれないが私には幸いなことであった。おかげでゆっくりと鑑賞し想像の翼を羽ばたかせることが叶った。漆胡樽は私を待っていてくれた。
 そも漆胡樽が今年展示されているとは知らなかったのでそれを見つけたときには跳び上がらんばかりに興奮した。

 偉そうなことを言ったが、私も浅田隆奈良大学名誉教授の公開授業を聞くまでは「漆胡樽・・それ何?」というものだった。
 今年の出陳宝物一覧では「漆胡樽 革袋形の水入れ 1双」と記述があったが、正直なところ、名前も、入れ物であったかどうかも、入れ物であったならば何を入れていたのかも何も解明はされていない謎の宝物?である。

   さて、シルクロード・西域という言葉に夢や冒険という言葉が似合うのも、その頭に未知や謎という言葉がついているからだろう。
 私個人は若いころから陳舜臣の小説が好きだったことも影響しているかもしれない。
 あるいは東の夷(えびす)から西の胡(えびす)に対する地勢的(中原からの距離感的)なエビスとされた者同士の親近感だろうか。
 タクマラカン砂漠、楼蘭、ウルムチ、カシュガル、クチャ、トルファン、ホータン、ヤルカンド、地名を追うだけで歴史が踊りだす。(ただ私のような西域感というのも実は重大なバイアスがかかっていて問題なのだが、そのことは明日触れてみたい)

 昭和25年に井上靖が小説『漆胡樽』を書いた当時にはそれ(未知、謎、夢、冒険)がもっともっと意識されていたに違いない。

 井上靖は昭和48年に次のように書いている。
 『小説の構想をあれこれ練ったという点から言えば[漆胡樽]が第一作であった。・・私が昭和21年の秋(第1回正倉院展)に漆胡樽という得体の知れない往古の器物に出遭ったということは、私にとっては意味のあることであった』
 そうして井上靖は、それが東トルキスタンのある民族の駱駝の背から匈奴の手に渡り、それが中国にもたらされ、さらに日本の遣唐使の一行の手に移り、日本に渡って正倉院の宝庫に収まるまでの小説を創作したのだった。
 別の場所で井上靖は『歴史の欠片』という言葉も使っている。

 西域にはさまよえる湖や消えた湖があった。
 旱魃は文句なく大砂漠のオアシス都市と住民の消滅を意味していた。
 これが水入れだとすると、そういう殺生与奪・問答無用に似た死活の水を何よりも大事にした証が漆胡樽なのだろうか。
 水入れだとすると、ただの水入れにこれほどまでにこだわった”おぬし”・・
 漆胡樽を駱駝の背に振り分けて旅をした君はイッタイ誰なんだ。
 そして、その歴史の欠片は何処に行ってしまったんだ。 

 井上靖がこれを見つめて首を捻ってから73年の月日が経ち、同じ歴史の欠片を私が眺めて首を捻った正倉院展が終了した。
 漆胡樽、おまえはイッタイ何者なんだ! 

 漆胡樽については以上で終わり。
 西域に触れては明日の記事に続く。

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