2019年11月29日金曜日

Black Friday

 私はどちらかというと年中行事やイベントが嫌いな方ではないが、ショッピングモールやテレビが「さあ買え、これを買え」と誘導するブラックフライデーには鼻白んでいる。貧乏人の僻みかもしれないが。
 各店が値引きするのは歓迎だが、圧倒的には仏教徒の国で『感謝祭の翌日』に何の意味があるのだろう。そんなことをいうとクリスマスはどうだと言われるだろうが。

 さらに、そんなことをいうと私の今日のブログなどはKY、空気が読めない・・空気を読め!ということになるのだろうが、現代のこの国の同調圧力というか、メディアの誘導するカタチへの過剰反応は、一度立ち止まって考えてみても悪くはない。
 以上は前説(まえせつ)である。

   本文に移ると、先日来いわゆる「喪中欠礼」のはがきがどしどし来ている。
 喪中=先祖供養の淵源はきっと儒教の教えだと考えるが、そうだとすると、この国に儒教の信徒?はそんなにいたのだろうか。
 素朴に亡き人をしのんで身を慎む思想は肯定するが、近頃はどうも形だけ「喪中につき」という風潮が感じられないだろうか。

 いや、欠礼の根拠は「死=穢れ」の神道だとしたら、これも、この国にそんなに熱心な神道の信徒?はそれほどいたのだろうか。
 なお、私は神道界の穢れの思想は好きでない。人それぞれの主張はあるだろうが。

 それに、これほど明白に「喪に服している」と宣言されているなら当然にある種の禁欲生活(旅行や外食やレクリェーションを行わないなどの禁忌)を実践されているのだろうかとちょっと皮肉りたくもなる。

 とまれ、諸行無常を説く仏教には往生=穢れの思想はないはずだし、一般的に言えばこの国の主要な宗教状況は仏教であり、その中の最大宗派は「浄土真宗各派」であろう。
 少なくとも浄土真宗各派には喪中の思想はないはずだ。
 私の理解ではキリスト教もそうだと思う。

 結局、「皆が出しているから喪中欠礼を出しておこう」という気分が多数であるようなような気がする。形だけというと年賀状そのものから皮肉りたくなるが、それはさておき。
 「方便」という仏教用語があるように、それが悪いというつもりはない。
 私だって結構社会に適応してほどほどに行動するつもりだ。礼儀ということも否定する気はない。
 しかし、自分の頭で考えるということをせず、安易に世間に合わせておこうというのは昨今の政治の腐敗の温床を形づくっていないだろうか。ここが私の結語である。
 お正月に、前年に不幸があった人から賀状が来たら不愉快ですか? 私は嬉しいぐらいです。

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