2019年11月2日土曜日

日吉大社逍遥

  近江・坂本の日吉大社を散策した折、西本宮の拝殿前に「幸魂奇魂守給幸給(さきみたま くしみたま まもりたまひ さきはへたまへ)」という「唱える言葉」があるので私は少し驚いた。
これは出雲大社や大神(おおみわ)神社の「言葉」でないかと。

『古事記』には「大山咋神(おおやまくいのかみ)・・近淡海国の日枝の山に坐し」とあるとおり、日吉大社の元々の祭神は大山咋神であるから、山そのもの及び山中の磐座(いわくら)を神とした信仰で、伊勢神宮の思想よりも古いものだったのだろう。
   咋を杭又は柱と考えると、一層イメージが鮮明になる。元は山頂に祀られていた。・・それにしても。

 実はこの日吉大社の本家筋に当たる大山咋神は東本殿に移されて、西本殿には大津京遷都の翌年である668年(天智7)に、大和の大神神社の大己貴(おおなむち)神が勧請され、元々の神である大山咋神よりも大己貴神の方が上位とみなされるようになったという。大己貴神は大国主神の別名とも言われている。

 天智天皇の大津京遷都の理由については多くの説があるが、663年(天智2)の白村江(はくそんこう・はくすきのえ)の大敗後、唐の侵攻を恐怖して大宰府を移転させ、山城、水城を突貫工事で築き、国の防衛体制を造ったものの一環という説に説得力がある。

 そんな国家存亡の危機(と天皇が考えたとき)に、天津神の天照大神ではなく大神(おおみわ)、出雲系の国津神を勧請したというのはどういうことだったのだろうか。少なくともその当時は大己貴神の方が霊験があると天智天皇も考えていたのだろう。

 明治以降の国家神道では天照大神を頂点に置き、その子孫である神武天皇以降の万世一系という神話が作られたが、日吉大社のこういう側面を見ると解るように、歴史を冷静に眺めてみると皇国史観の不当性が見えてくる。
 伊勢神宮が悪いわけではないが、国家神道や皇国史観に惑わされてはいけないだろう。

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