2019年2月3日日曜日

古代史を推理する Ⅱ

 昨日の記事の冒頭で、古代史関係の本の中には論理的でない説も多いと書いたが、結局、緻密な考古学の積み上げだけでは巨大な伝仲津姫陵の仲ツ山古墳(藤井寺市)や伝履中陵である上石津ミサンザイ古墳の真の被葬者も昨日は解らなかった。よって、冒頭の主張を忘れて空想(妄想)を書いてみたい。君子は豹変するのだ。

   先ず、ヤマトにとって東海道新幹線ないし国道一号線に当たるのは大和川であった。その亀の瀬近辺の要衝を抑えていたのは葛城氏で葛城氏は大王家とも結びつきつつ、氏族中心に大きなネットワークを拡大していた。
 神功皇后(息長帯日売命)の母も葛城だった。
 後の平群、巨勢、波多、蘇我、紀氏などなど。それは河内、丹波、因幡、越まで伸びていた。
 つまり、大王家以前に河内を開拓していたのも彼等であった。例えば、一族の依網吾彦(よさみのあびこ)などはその名のとおり住吉、我孫子、松原の天美などを開拓していた。
 オーバーラップして考えれば、住吉の神もこの地を先行して開拓していた豪族(同族)だろう。(注:今の大和川はなく河内湖に北流していた)

 そこで応神天皇に話を戻すと、母神功皇后と一心同体のように奮闘したのが葛城に繋がる武内宿禰であり、記紀での活躍もずば抜けている。

 さて、神功皇后も武内宿禰も架空の人物だという論があるが、そうであるなら応神天皇の真の「父母」は一切記録や記憶に残されなかったのか。
 仲哀天皇は突然死んだとされている。神の託宣を疑ったからだとされているが、その場には仲哀と意見を異にした神功と武内宿禰しかいなかった。
 そも応神は仲哀死亡から十月十日後に誕生した。記紀自身が仲哀の子であることに疑問符を付けているように見える。
 「皇后、大神と密事あり」(住吉大社神代記)との記録もあるといい、正体が非常に解り難い住吉の神が実は武内宿禰と類推する説もある。

 とまれ、武内宿禰は書紀では孝元紀、景行紀、成務紀、仲哀紀、神功紀、応神紀、仁徳紀、允恭紀、継体紀など21件に及ぶのでそのことが反って実在性を疑わせているが、しかし、武内宿禰とは市川團十郎、笑福亭松鶴、木村庄之助のような名跡扱いされていなかったか。つまり武内宿禰は複数「襲名」していたと考えられないか。これは小笠原好彦氏が葛城襲津彦について検討された考え方を援用したのだが。

 遠く考古学から離れてしまったが、巨大な伝仲津姫陵の仲ツ山古墳(藤井寺市)や伝履中陵である上石津ミサンザイ古墳が実は武内宿禰A及び武内宿禰Bの墓だとしたらどうだろう。
  書紀允恭紀には、葛城襲津彦の孫玉田宿禰が反正天皇の殯(もがり)をサボって酒宴したのを天皇の使者に見つかり、使者を殺して武内宿禰の墓に逃げ込んだというのがあり、アジールであったと推定される。
 そこで反正天皇陵であるが、現反正天皇陵である田出井山古墳は小さすぎて大王墓とは考えにくいというのは定説に近くなっている。これで百舌鳥の巨大古墳は出尽くした。

 昨日の記事では白石太一郎氏は、考古学的な築造順にいえば大仙陵古墳(仁徳陵の蓋然性が高い)→土師ニサンザイ古墳(履中陵の蓋然性が高い)→岡ミサンザイ古墳(藤井寺市伝仲哀陵)だと指摘されている。
 だとすると応神の父である仲哀の墓が履中よりも新しいのはおかしい。
 実は岡ミサンザイ古墳こそが反正陵ではないのか。
 そして玉田宿禰は仲ツ山古墳(武内宿禰AorB)に逃げ込んだとするとどうだろう。
 真の仲哀陵は津堂城山古墳、河内大塚古墳など想像の翼は広がるがこれ以上の想像には疲れた。
 すべて空想の世界に遊んでみた。

   年度末時空を超えた説明会河内王朝はありやなしや

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