その時代、続日本紀によると天平12年正月元日朝賀の儀に「奉翳美人(ほうえいびじん)」が参列していたことがわかる。
古代、翳という長い柄の大きな団扇で天皇の顔を隠していたことが高松塚古墳壁画からも知られている。
美人は唐などの高級女官の官職名である。
翳を持って天皇を覆うように何人もの奉翳美人が参列していた。
続日本紀には、そしてそのあとに、女官の礼服ではない「更に袍袴(ほうこ)を著た」と書かれている。
袍袴は男性用の袴、つまり男装したとある。
後の東大寺要録などからそれは、奉翳美人が本来の任務を終えた後、服装を男装に変え、勇壮な男舞を舞ったのであろうと考えられる。
後代の白拍子の舞などの起源のひとつが天平中期の宮廷にみられたわけである。
以上は、先日来記事とコメントで紹介した直木孝次郎先生の小論「奉翳美人」の骨子である。
こんなことまで興味を持って研究されたのかとただただ感心するだけだ。
こんなことまで興味を持って研究されたのかとただただ感心するだけだ。
私は先日、狐忠信で白拍子静御前にも触れて書いたところなので、追悼にもならないが駄文を書いてみた。
泰斗逝き奉翳美人も劣化して
泰斗逝き奉翳美人も劣化して
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