2019年2月2日土曜日

古代史を推理する Ⅰ

   古代史の本は数多(あまた)あるが、証明抜きのまるで文学作品のようなものが多いので注意が必要だ。
 近頃では「この先生の本はどうも」と最初から排除できるが、読んでから嫌になった本も多い。理由は論理的でない、証明がないというのが多かった。

 そういう玉石混交の中で私は、白石太一郎氏先生の講義を度々聞き、その本を何冊も読んで、非常に共鳴するところが多かった。この先生の論建ては信用できる。
 なのでこの本、白石太一郎著『古墳の被葬者を推理する』(中公叢書)を書店で見つけた時には文句なく購入した。

 そこでその読後の感想をブログに書こうとしたが、実は一向に筆が進まない。
 理由は、比較的馴染みのある古市百舌鳥古墳群あたりをピックアップして氏の緻密な論建てと推論を皆さんに紹介しようと思ったが、それが間違いのもとで、私の知識如きでは到底ついていけないという挫折感に似た気分に陥ったからである。

 一挙に結論を言う。膨大な考古学的知見と文献史料の徹底した検討の結果、氏は「誉田御廟山古墳の築造時期は5世紀の第1四半期の新しい段階」「被葬者はやはり4世紀末から5世紀の早い時期に在位したであろう応神天皇(大王)」と想定された。(その根拠は膨大な頁数に及びここでは割愛するが説得力がある
 そして誉田御廟山古墳=応神天皇陵だとすれば、大仙陵古墳=仁徳天皇陵の蓋然性は非常に高まるとされたのである。
 この結論は私には驚きだった。ええっ、延喜式~宮内庁の治定どおりだと???

 考古学的な見地から氏は古市百舌鳥古墳群中の大王墓候補の築造順を、仲ツ山古墳(藤井寺市伝仲津姫陵)→上石津ミサンザイ古墳(堺市伝履中陵)→誉田御廟山古墳(羽曳野市伝応神陵)→大仙陵古墳(堺市伝仁徳陵)→土師ニサンザイ古墳(堺市陵墓参考地)→岡ミサンザイ古墳(藤井寺市伝仲哀陵)とされているが、河内王朝とは言わないまでも、これでは始祖的応神陵が誉田御廟山となるので、伝仲津姫陵や伝履中陵が大王墓でないということになる。それとも応神以前に河内に出てきた大王(後の天皇)がいた???

 この二つの古墳が大王ではなく、ヤマト王権を河内に引っ張り出してきた豪族首長だとしたらそれは誰か。
 後の蘇我に匹敵するような河内の豪族は文献史料中の誰か? わからない。
さらに履中陵が土師ニサンザイ古墳だとしたら反正陵はどこか(田出井山古墳は元々大いに疑われているが)。さらにわからない。
とりわけ延喜式(927年完成)はあてにならぬようであるが、そうすれば文献史学は何を解明すべきか。
 
 そこでいろいろ読み返してみた。森浩一著「天皇陵古墳への招待」、宮川徏著「よみがえる百舌鳥古墳群」、小笠原好彦著「古代豪族葛城氏と大古墳」、大塚初重著「古代天皇陵の謎を追う」、中井正弘著「仁徳陵」、石渡信一郎著「応神陵の被葬者は誰か」、石部正志著「古墳は語る」、吉村武彦著「古代天皇の誕生」、高城修三著「神々と天皇の宮都をたどる」、猪熊兼勝著「飛鳥の古墳を語る」、吉村武彦著「ヤマト王権」等々。結局、ストンと落ちる文章にはたどり着けなかった。

 さて、考古学の方は、石棺の変化、石窟の石組みの変化、前方後円墳の形の変化、埴輪の変化、土器の変化、炭素年代測定、年輪年代測定等々によって格段の進歩があった。白石先生のこのあたりの推論は圧巻だ。
 となると、文献史料の勘違い、あるいは偽造、粉飾等々、「裏」にうずもれている真実を解き明かしていかなければならない。
 現代史だって嘘にくるまれているのだから、過去もきっとそうなのだろう。
 どこかに解くカギはあるに違いないが、道遠し。
 私が半ば絶望感を漂わせながらこのブログ記事を書いた気持ちがご理解いただけると思う。
 何の紹介、読後感想にもなっていない。公文書改ざん問題とオーバーラップして頭がくらくらする。
 明日に続く!

   書き換えたひと名乗り出よと太一郎

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