22日に吉川真司京大教授による東大寺山堺四至図を読み解く講演があった。
この絵図は天平勝宝八歳(756)に作られたものであるが、今のなら町のあたりが広く田であったなど変っているところも少なくないのだが、それ以上に現在の一帯が奈良時代とあまり変わっていないのだなあというのが私の印象だ。(右の模写のとおりだが、山ばかりのためか左側に比べて右側の縮尺が縮められている)
印象に残ったことを思いつくままに書いてみると・・・、
今は南大門が正門のようになっているが、当時は西大門が正門であった。そこは平城京二条大路つまり東西のメーンストリートの突き当りであった。なるほどさすが官寺東大寺だ。(西大門は今の若草ドライブウェイ入口のところ)
ちなみに「回廊の中門」も南大門もそれらしい図になっているが記述はなく、南大門の北側は小山になっているからその当時南大門は正門には向いていなかったのだろう。
羂索堂(今の三月堂)が大きく書かれており、その北側に▢のマークがある。さらにその横に井とあるが、▢は二月堂の前身か?そして井は閼伽井か?
となると、天平勝宝4年(752)に修二会(お水取り)が始まったという縁起も肯定される。
御蓋山の西に神地という表示がある。春日大社の創建は神護景雲2年(768)とされているから、先行して素朴な信仰が存在していた。それを春日大社が引き継いで発展させたということになるだろうか。
神地の文字が東の御蓋山に向いて書かれている。つまり東面している。現在の春日大社は少し南に(これは絵図の間違いかもしれないが)南向きに建っているが、大神神社が三輪山を御神体として東面していることと合っていて、非常に古い神の信仰を想像する上で興味深い。
その外、山側の寺や井戸がよく書かれていて、東大寺も含め源流は山林寺院と講師は指摘。だとすると、法隆寺や四天王寺とどうつながるのか?あるいはどういう変遷でそうなったのか?
講師は山林寺院での修行が求められていたと指摘。さらに、聖なる水、泉や井戸も重視されていた証拠だと。
以下、講演内容は割愛するが面白く充実した時間だった。
えっ!! 面白くないですか。
青丹よし奈良の京はそのままに
絵図を拡大して面白く拝見しました。
返信削除