喪中はがきが届いた。
一般的なあいさつ文に加えて、お母さんを偲んだ3首の短歌が添えられていた。
もちろん、そのお母さんのことは存じあげない。それどころか、頻繁な転勤が常であった現職時代には、ご本人ともたかが数年のお付き合いであったし、病気がちであったご本人とは深く話す機会もなかった。
しかし、この3首の短歌からは、病気がちだったわが子を受け止めた母、その母を看護し見送った子、その二人の心の通い合いが伝わってきた。
「喪中はがきには短歌ぐらい添えたらどうか」などと怖れ多いことを言うのでない。
私自身手も足も出ない。
短歌ではないが少しじ~んとくる添え書きのはがきもある。
が、常套句だけのはがきもある。
喪中はがきにそんな感想を持つ方がおかしいと言われそうだが・・・、
何事につけ、近頃は非常に形式にとらわれ過ぎて、ものの本質が軽んじられていないか。
その「形式」なるものが歴史に裏打ちされた「形」(伝統)というよりも、ある種の商業主義、あるいはもっと言えば「長いもの」から期待され、それに忖度するような「形式」であることが多くないか。
常套句に逃げて「出る杭」にならないように生きるのは寂しいし、結局人生を忖度で過ごすことにならないか。
この秋以降に不幸があった方にそんな時間や心の余裕のないのはもちろん仕方がない・・・それはそれとして・・・、
そんな中、心のこもった短歌の入った喪中はがきに私は感じ入った。
我が母よ死にたまひゆく我が母よ我(わ)を生まし乳(ち)足らひし母よ 斎藤茂吉
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