2018年12月2日日曜日

ジャーナリストになる

   同じ一つの写真を見てそれぞれが俳句を作り、夏井いつき先生が「才能なし!」「凡人!」「才能あり!」と断を下すテレビ番組が面白いが、同じようなことはいろんな場面であるものだ。
 さて俳句の話ではなくカール・マルクスについてだが・・・、

 カール・マルクスというと、経済学者、哲学者、そして革命家というイメージが浮かんでくるが、そしてそれ自身なんら間違いでも何でもないのだが、内田樹著『常識的で何か問題でも?』(朝日新書)の小見出しに「ジャーナリスト・マルクス」というのを見つけて、「そういう切り口があったか」と私ははたと膝を打った。

 内田樹氏の文章から引用すると、「1851年にルイ・ボナパルトのクーデターが起きた時『フランスでは一体何が起きたのか?』を知るために、ニューヨークのメディアがまずマルクスに問い合わせたのは妥当な人選だったと思う。マルクスが求めに応じて書いた記事はのちに『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』という書物になり、以後150年以上にわたって読み継がれている」とある。

 「ヘーゲルはどこかで、すべて世界史上の大事件と大人物はいわば二度現れる、と言っている。ただ彼は、一度は悲劇として、二度目は茶番として、とつけくわえるのを忘れた」で始まる有名な「記事」のことである。

 安倍政権による国会無視がはなはだしい。大臣たちのモラルの崩壊も甚だしい。大阪を地盤とする維新がそれにお追従を送る姿も汚らしい。・・というようなことごとが重なるので「それらを掃き捨てたいがいったい何をしたらいいのか」という声を聴くことがある。
 私がはたと膝を打ったのは、「マルクスはジャーナリストだった」という、知ってはいたが注目していなかった視座である。

 集まって議論するのも良い。しかし大事なことは一人ひとりがジャーナリストの気概を持つことではないだろうか。
 ミニコミ紙でもよい。SNSでもよい。
 今はマルクス主義者などとは言わないのだがあえて言う、オールドマルキスト! つべこべ言わずに記事を書こう。

   マルクスはジャーナリストだと膝を打ち

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