新聞各紙が報じたところによると、稲田防衛大臣は南スーダン日報問題で、2月15日の防衛省の幹部会議において、陸自内に保管されていたデータを数日前から報告を受けていたものを「あったことを公表しない」と決定したという。
稲田防衛相の数々の大嘘には驚くことを忘れるほど慣らされてしまったが、自衛隊という実力組織が大臣を通じて国会に嘘をつくというのは見過ごせないと私は思う。
さて、昭和6年(1931)9月18日夜、中国東北部柳条湖(りゅうじょうこ)(軍部は虚偽の地名である柳条溝・りゅうじょうこうと発表)で満鉄の線路が大日本帝国の関東軍によって爆破。直ちに「中国軍による仕業」と表明して、旅順から榴弾砲を移動させ張学良の北大営を攻撃、翌早朝には奉天、長春を占領、4日もせず南満州の主要都市と鉄道を占領した。これが『満洲事変』であり昭和20年8月15日まで続く15年戦争の始まりだった。
この謀略は2年前から関東軍参謀石原莞爾らによって準備された計画で、満鉄線からはるか離れた場所での行動は閣議了解、更には朝鮮軍の中国(満州)への越境は奉勅(ほうちょく)命令(閣議同意の上での天皇の命令)がなければできないところをあえて行ったという、恐るべき軍部独走であった。
軍部の謀略であることは、外務省の奉天総領事館からの情報で明らかになり、幣原喜重郎を外相に据えた若槻内閣は南陸相に詰め寄り、一旦は事件不拡大方針を指示するも、結局は軍部の言い分を追認していった。
若槻内閣がどうしてそのように「腰砕け」になったのかということでは、加藤陽子著『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』では、昭和6年3月の陸軍将校の秘密結社・桜会と大川周明が企てたクーデター未遂・3月事件、10月の同種10月事件、翌年の井上蔵相が殺害された血盟団事件、更には5月に犬養毅首相が殺害された5.15事件などの流れの中で、理性的な意見を表明するのがまさに命がけの時代になっていたことをあげている。
というような歴史的事実と現代を単純に重ねて議論する気はないが、加藤陽子氏の言葉を借りれば、歴史という学問は暗記ではなく、「歴史的なものの見方ができるかどうか」「歴史的なものの見方に気づけるかどうか」だということになる。
で、私なりに「気づいた」ことは、稲田隠ぺい事件を見過ごすならば、理性的な意見を表明するのがまさに命がけの時代が来るだろうという確信である。
梅雨明けが楽しかったはいつの日か
ずいぶん昔の思い出になるが、仕事で少し年長の上司に人の名前を説明するときに「石原莞爾の莞爾です」と説明して通じなかったのでショックを受けたことがある。
返信削除戦前の知識ある人なら石原莞爾は当然に知っている有名人だと思っていたのにそうでなかった。
それはさておき、佐高信氏が珍しく「郷里の英雄」の人間的魅力を語っているのが少し可笑しい。
講談社文庫『石原莞爾――その虚飾』佐高信著である。基本的には著者は「放火犯の消火作業」であったと喝破しているが。