2017年7月27日木曜日

宗派について

 ちょっとした思い付きのような話だが、宗教における宗派について考えた。
 というのも、奈良公園は外国人観光客で溢れていて、中には一見してインドや東南アジアのお坊さんの姿もある。
 上座部仏教と推測されるこの人たちの目には、奈良公園周辺の仏像やお坊さんはどう映っているのだろう。
 鄙びたお寺や仏像には「どうして塗装をし直さないのか」と不思議だろう。
 いや、そここそが、中国や東南アジアのお寺では考えられないような剥落ぶりこそが新鮮な印象なのかもしれないかも(ただの私の想像だが)。
 奈良公園でそういう異文化と接触する機会を得ながらも会話ができないという己が無教養が情けない。

ネットにあった台湾の道観
   大仏殿では、中国人と思われる観光客が両肘を張って顔の前で線香を立てて拝む姿もあった。テレビで得た知識でしかないが、それは道教のお祈りの仕方だと私は思う。
 そして、その方々に「東大寺は道教の観ではなく仏教の寺なのだ」と説明することに、どれだけの意味があるのだろうかと私は考え込む。
 その人の頭(心)の中では毘盧遮那仏も道教の神のようなものであって、だから道教の祈り方であって何の不都合があるだろうか。
 (日本仏教内の道教の影についてはひとまず差し置く)

 そういう奈良公園での諸相を見ていると、宗派の相違などなんと小さいことかと思えてならない。
 西洋哲学に〇〇学派というのがあるように、教義についての学派・宗派はあって当然だろう。という意味では私は宗派肯定派である。 
 同時に、人類の理想に向かって宗教家には小異を横において大同で力を合わせてほしい。
 そういう視野で考えると、公明党を支える創価学会、日本会議を支える神社本庁の偏狭な姿勢はいただけない。

 インド仏教界の指導者佐々井秀嶺師のことは『必生(ひっせい)闘う仏教』(集英社新書)という本でしか知らないが、その中で日本国内の「宗派根性」を猛烈に批判しているのには納得した。
 同じ問題意識としては、科学的社会主義者も胸に手を当てて反省すべきことは多い。

    蝉の声耳の外か内かが分からない

2 件のコメント:

  1.  
     長谷やん、相変わらずの健筆に感心しています。さて今回は私の領域にも絡む「宗派について」というテーマですので、所見を投稿します。
    長谷やんの記事で感心するのは、単なる記事だけでなく、背景となる景色が描かれていることです。この記事にもアジア諸国の僧侶を配し、近年の奈良公園辺り変化が浮かんできます。
     最後には一転、長谷やんらしく「人類の理想」に向かって宗教団体の大同団結を訴えるところなど、さすがと思いました。

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  2.  和道さん、私の全くの思いつきのような記事にコメントありがとうございます。
     小さい頃から真宗の環境に馴染んできた私が、ひょんなことから近頃は法華宗の寺院の復興に協力しています。そのため、理論的なこと以前に仏教と宗派ということに心の整理が必要でした。
     大仏殿で見た中国人と思われる方々のお祈りの仕方を「道教だ」と感じたことが正しいのかどうかも分かりませんが、少なくとも、その方々が何の違和感もなく廬舎那仏を拝んでいる姿にある種「目から鱗」の気がしました。
     話は跳びますが、最後の一行も私の強い問題意識です。

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