大局から見れば立派な事業と讃えられるような歴史的事実であっても、渦中の庶民は実は翻弄され嘆いていた・・・・というか、そんな人々もいたというのも、また歴史である。
大阪の都市計画の代表例とされる御堂筋の拡幅もそうであった。
真宗王国の近江商人たちが大阪に進出して「御堂(北御堂(西本願寺)と南御堂(東本願寺))の鐘が聞こえるところに店を出したい」と夢見たところの御堂筋も、その昔は幅6mにも満たない道だった。
大正時代までの大阪のメーンストリートは、紀州街道を経て堺に通じる堺筋と今の四ツ橋筋(南北線)で、特に堺筋には大正時代に三越、白木屋、高島屋、松坂屋が並んでいた。
それに取って代わったのが御堂筋で、その拡幅工事は大正15年に着工し昭和12年に完成した。幅員45mで、庶民は「飛行場を作るんかいな」と言ったらしい。
その当時の話を実母に聞いたところ・・・、
祖父母等が船場の心斎橋筋(御堂筋の一つ東の筋)で地元の方々を対象に商いをしていた我が家としては大きな打撃だったという。
先ず、お得意さんだったご近所の方々がごっそりと立ち退きで居なくなった。
同時に、それまでお店とお宅が一緒であった船場の商家の職住分離が進み、お得意さんだった家族の方々が芦屋あたりに転居された。
そして、和服が中心の時代、幅45mの御堂筋を横断するのは困難なため、御堂筋の西側のお得意さんが離れてしまったという。
祖母はよく「横断するのに息切れして困った」と言っていたらしい。
ということで、家では「お得意さんが2000人も減ってしまった」と御堂筋を怨んでいたという。
高度成長の時代には「経済の大動脈」とか「幅がまだ足らんかった」と言われて人を押しのけて一方通行になった御堂筋だが、70数年の歳月が流れ、今では「東西にそれぞれ自転車専用道路を作ろう」と言われはじめ、ようやく「人に優しい道でなければ」と見直されようとしている。
この言葉を、今は居ない祖父母や父は何んと聞いていることだろう。
〔余禄〕 船場の商人に近江出身者の多いことは有名だが、お正月のお雑煮も確かに一致している。また、船場言葉も近江弁と重なるように私は感じている。このような大阪文化の基底をなしている近江文化のもつ意味については一度ゆっくりと考えてみたいと思っている。好き嫌いは別にして、大阪文化の本流は吉本新喜劇よりも松竹新喜劇的なはず。もちろん太田プロダクション所属のタレント市長の品の悪さは大阪文化とは相容れない。大阪文化の無意識の記憶は蓮如の広めた真宗である・・と五木寛之氏は示唆している。
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