大正時代の女学生(実母)に当時のオシャレ心について聴き取ったことをメモにしておこう。
近頃は卒業式シーズンに街でいくらでも目にする風物詩になったので別に驚くような情報ではないのだが、大正時代の女学生(つまり母)は和服に袴姿であった。
その袴は海老茶色で、襞(ひだ)が前に6~8本、後ろに3本ぐらいだった。
資料によると、明治の中~後期に跡見女学校が紫の袴を制服に制定する一方、華族女学校が襠(まち)のない海老茶色の行燈袴(あんどんばかま)を採用してからこれが全国の女学校に広まったという。故に女学生のことを「海老茶式部」と呼んだりしていたらしい。・・・なら、跡見は紫式部と言われていたの?
その海老茶式部であった母たちからすると・・・、
何と言っても関西のファッションリーダーは宝塚歌劇団で、女学生たちは雑誌などでむさぼるように流行の流れを追っていた。
その宝塚の袴はというと緑(オリ-ブ)色で、襞が10本から12本で、少し高い目に着こなし、その全てが憧れの的だったと、目を細めて当時を振り返る。
だから、多感な女学生たちは、せめて襞の数だけでも・・・と、夜なべをして襞の数を増やしたもので、・・・もちろん見つかれば風紀の先生に叱られたというのだから、大正時代といえども女学生は女学生だったのだ。
そして、お嬢様学校として有名だった樟蔭女学校がその緑色の宝塚風であったらしく、ここも宝塚同様に普通の女学生の半ばジェラシーに似た羨望の対象だったという。
なお、母は5年生の時にセーラー服も可となったので早速セーラー服にしたというのだから、当時としては時代の最先端をいくハイカラさん、「跳んでる女性」だったのだろう。
田辺聖子さんも書いていたが、歴史を振り返ると、太平洋戦争前のこの時代はそこそこに明るさの残っていた時代であったようで、母の記憶もそれを十分裏付けている。
歴史入門というほどのことではないが、確かな近代史のひとコマを聴き取った気がする。ちょっと大げさかな。
「間違ったところはないですか」と、このブログの原稿を母に見せたら、重篤といわれているのが嘘のように目を輝かせて、「このとおりや」と嬉しそうに顔がほころんだ。
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