12月13日に渤海を書いたが、渤海は7世紀末に高句麗の遺民大祚栄がツングース系の靺鞨を統合した国だった。
その渤海は10世紀初頭に南下してきた契丹族の遼に滅ぼされた。
その契丹(遼)の支配下にあった女真(女直とも)は後に12世紀には契丹に代わって金を打ち立てるが、契丹支配下で特に朝鮮半島東北沿岸にいた東女真こそ日本が驚いた東夷(刀伊)であった。
朝鮮半島では新羅を破って高麗が樹立されていた。
・・・ここまで記述するのに時間を要した。というほど私は無知だった。
そんなもので中公新書『刀伊の入寇』、12月の初旬には読み始めていたのだが、年をまたいでようやく読み終えた。
そこで感想をひとつだけ言うと、確かに王朝の兵(つわもの)たちもよく戦ったが、対馬、壱岐、博多湾周辺で略奪、殺害、捕虜生け捕りがされたにもかかわらず、時とともにそれは「刀伊を討ち従えた」という記憶に変わったということに驚く。
寄り道だが、元寇のことについて東大寺の長老に教えてもらった話に、北ベトナム大越国の大勝利の話がある。日本に対して3度目の大侵略を計画していた元はその前にベトナムへ大戦争を繰り返したが、ベトナム側の「バクダン川の奇計」によって、艦船100隻沈没、400隻捕獲、兵は多数死亡、将軍、士官多数捕虜という決定的な大敗北を喫した。だから3度目の元寇がなかったのは鎌倉武士や神風に恐れたのではなく、ベトナムでの大敗北によって元が南や東への海戦をやめたからであるという話だった。
つまり、元寇を神風とした後の歴史認識のようなものは「刀伊の入寇」からあったということ、もっと遡って新羅との戦争やいわゆる「神功皇后三韓征伐」も同じで、良い意味でも悪い意味でも島国ニッポンの外交その他の「観念論」の根は深いと思い知った。
バクダン川の奇計
返信削除1288年4月3日、元軍の艦船がヴェトナムに進撃したが、満潮を見計らってヴェトナムの小艦艇軍が元軍に挑み、元軍の艦船が出てくるのを待って上流へさっと逃げ出し、元軍に追跡させるかたちをとった。すると潮が引きはじめ、元の艦船は満潮時にヴェトナム軍が打ち込んでいた杭にさえぎられて動けなくなった。そこへヴェトナム軍が両岸で待ち伏せていた軍も加わり戦いついに元軍を破った。艦船100隻を沈め、400隻を捕獲、元軍兵士多数が水死し、ウマル将軍と大勢の将軍、士官たちが捕虜となった。