2025年1月25日土曜日

矛盾はそのままでは「進歩」に進まない

    若い頃「公務労働論(公務員労働組合運動論)」を大議論したことがある。
 日本共産党が「教師は労働者であることはもちろんだが聖職者でもある」「父母らと連帯した労働運動を」と主張したことに対して、当時の日教組主流派(社会党や総評主流派)は「労働者性を弱める」と大非難をしてきた。
 それは日教組だけでなく広く公務労働内にもあった議論でもあった。
 我々の労働組合が「行政研究活動」や「行政民主化」に取り組んでいたときも、他の組合から少し冷たい目で見られていたときもあった。
 その中に、「政府権力の末端で民主化などありえない」「政権の言う通り悪政を執行すればするほど国民と権力との矛盾は深まり政治の民主化を生むことになる」と、私なども面と向かって批判されたこともある。以上が前説である。

 今日のこのブログの話は公務労働論ではなく、「公務員も労働者以外の何物でもない」論に代表される教条主義、図式主義、つまり、「市民は抑圧され貧困が進むほど民主化に立ち上がる」論の軽さについてである。
 ずばり、トランプを熱狂的に生み出した貧しいアメリカの労働者、同種の西欧での右翼の伸長、そして日本での維新やその後のSNS依存層のことである。
 たしかマルクスの労働組合論の中に、「貧しい労働者はスト破りにもなり得る」というような指摘があったように覚えているが、社会の矛盾が深まれば深まるほど、社会進歩に向かう力が強まると同時に、反対に利己主義、反知性主義などのパワーも強まるのだ。
 
 そんなことをブログに書いているだけでは「屁のツッパリ」にもならないが、他のSNSを含めいろんなツールを使って声を上げることが重要になっている。
 私の好きな言葉は、「K・マルクスはジャーナリストでもあった」である。
 悪い意味でも良い意味でも時代は激動の渦を生むだろう。

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