2025年1月27日月曜日

被葬者は麛坂王

    1月22日に「なんでやねん」を書いたが、その「なんでやねん」という番組の感じでいうと私の答は20点ぐらいは貰えそうだが、入学試験なら0点で不合格に違いない。

 1月25日「文化財保存全国協議会」の記念講演「富雄丸山古墳の被葬者を考える」の小笠原好彦先生の答?とは違っていた。
 私の答は忍熊皇子(おしくま王)であった。その考えは2017年12月2日「富雄丸山古墳その4」で開陳したとおりだが少し振り返っておくと・・

 第13代成務天皇は日本書紀では子がなかったということで、日本武尊(やまとたける)の子(甥にあたる)仲哀天皇に皇位が継がれた。この仲哀天皇と大中姫(おおなかつひめ)(成務天皇、日本武尊等と並ぶ兄弟であった彦人大兄・ひこひとのおおえの娘)との間に麛坂皇子(かごさか王)、忍熊皇子(おしくま王)がいた。
 そして仲哀は熊襲の反乱鎮圧のため出陣中の筑紫の香椎で急死し、神功皇后は乳児(後の応神天皇)を連れて大和を目指し。それによって神功(応神)と、「麛坂王、忍熊王」との間で跡目争いの戦となった。
 ただし麛坂王は戦の前の占いである祈狩(うけひがり)中に赤き猪に食い殺されたので、実際の戦は忍熊王が行い(忍熊王の反乱)、神功・応神側に忍熊王は殺された。
 なお、奈良北部の佐紀盾列(さきたたなみ)古墳群の西方に今も押熊という集落があり、添の縣(朝廷の直轄地の添郡)周辺の勢力は富雄丸山古墳の富雄にも及んでいた。現在も富雄には添御縣坐神社がある。
 よって私の答は仲哀の皇子であり、次期天皇候補であったが、神功・応神側に敗れた忍熊王を忍んで奈良県北部の添周辺の勢力が築造した古墳だというものであった。

 それに対して小笠原先生は、時代が河内の百舌鳥古市古墳群直前というのは同じ。
 その時代に、全国最大の円墳を築造できるのは天皇家一族かそれに近い人物。となると麛坂王、忍熊王が候補となるというのも同じ。
 しかし、忍熊王は後の勝者からいわせると反乱者で敗北者とその勢力であるから古墳の築造は許されない。
 となると、戦以前に死亡していて、かつ仲哀の長男として周囲から有力な次期天皇候補と目されていた麛坂王の古墳だと推定される。
 死亡直後、もしくは生前から、忍熊王やその勢力によってふさわしい前方後円墳を目指して築造を始めていたものが、忍熊王の反乱の後は前方後円は許されず、後円部のみの大円墳となったものだろう。

 また、造出しから出土した「蛇行剣」は儀仗用のもの。「盾形銅鏡」は姿見。妃が追葬されたのだろう。…というもので、神功皇后の実在性、儀仗用の大きな盾と矛、神功側の主力となった大豪族葛城氏等について証明されていったが、ここでは割愛する。

 こうして私の答が、甘ければ30点を遠くに臨む0点というのも理解いただけるだろう。
 最後に、先生はこの論文?の再確認も兼ねて1月4日午後に押熊の集落にある『忍熊(おしくま)王子 麛坂(かごさか)王子 舊蹟(きゅうせき)地』を訪ねられたそうだが、このブログの1月5日の「忍熊王の旧跡」のとおり、その数時間前にわが夫婦もその地を訪れ、既述したように、私は忍熊王の方を富雄丸山古墳の被葬者としてイメージしていたものである。

 ※ 『忍熊(おしくま)王子 麛坂(かごさか)王子 舊蹟(きゅうせき)地』の写真を2枚追記する。


2 件のコメント:

  1. 写真を2枚追記しました。

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  2. 1月31日朝日新聞奈良版にこの講演会の記事が大きく掲載されている。

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