2024年7月9日火曜日

住吉神社の謎

   一昨日書いた武内神社には、末社として「住吉神社」も祀ってあったが、このことにも私は少し驚いたというか感動した。
 つまり、実は大阪の住吉大社にも大きな謎があるのである。
 住吉大社神代記には「住吉の神と神功皇后に「密事」があり俗に夫婦の間柄になった」と書いている。
 この「神」が誰かについては諸説あるが、素直に読めば武内宿禰でなかろうかと私は思っている。
 住吉大社神代記そのものも、まるで武内宿禰と神功皇后の伝記の様相もある。

 ともあれ、書紀を基にすると、神功の妊娠期間は1年3か月余り、夫の仲哀天皇が亡くなってからでも10か月余りとなる。
 そして武内と神功は、後の応神天皇となる子を擁して、出兵先の穴門(山口県)から大和に攻め上り、仲哀天皇の子忍熊王(おしくまおう)等を制圧したのだから、河内王朝論は俄然有力な説となってくる。
 河内でそれを支えたのは、大和から河内にすでに進出していて最新の渡来人の技術を手中にしていた葛城の一派ではなかったか。

 「渡来人」とさらっと書いたが、例えば今の大阪市周辺には百済川、百済郡、百済寺、百済州、新羅州、新羅池などの地名が平安時代の浪華上古図にある。
 古事記によれば、神功皇后の始祖は新羅の王子アメノヒボコとされている。
 後の書であるが「八幡宇佐宮御託宣集」には「辛国・・に天降り、日本の神となり・・我は誉田(応神)天皇なり」とある。
 そもそも百舌鳥・古市の古墳時代には馬具や実戦的な兵器が急増している。
 権威としてのこれまでの大和の王権の後継者を名乗りながら、その実は劇的な変化があったと見る方が素直な気がする。
 こうして私は、河内王朝説(王朝交代論)に加えて、騎馬民族征服王朝説にまで心が魅かれるのである。

1 件のコメント:

  1.  騎馬民族征服王朝説は江上波夫氏が50年以上前に唱えた説で、今でも学界では亜流とされているが、結論は別にしても、博識の江上波夫氏が提起している問題意識は全く色あせていないと思っています。

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