先日、小笠原好彦先生の古代史の勉強会で『古代の図書寮(づしょれう)』について学んだが、いつもどおり大切な講義の中心部分はあまり勉強が進んだとはいえず、講義の脇道の枝葉部分が頭に残った。 こういうのは「あるある」とでもいおうか、ある種の何か「法則」かも知れない。
その記憶に残ったことというのは、図書寮が各部署に筆や紙などの費用を配るのだが、記録によると、国営事業であった石山寺の現場に粉酒4斗(分?)を1升9文で360文支給していることだった(正倉院文書)。
問題は、粉酒とは何ぞやである。粉末の何かであれば通常は1斤(きん)2斤だが、ここでは1升であり4斗となっている。
そこでヒントは写真の続日本紀・天平宝字2年2月20日条である。
橘奈良麻呂のクーデター未遂事件に肝を冷やした孝謙天皇は、その種の謀議の出発点はそもそも酒席で起こるものだとして、この日、「濫(みだ)りに飲酒集会するを禁ずる」詔(みことのり)を発していたのだ。禁酒令(法)である。
しかし、石山寺の造作現場などの各現場ではそんな奇麗ごとは通用しない。酒も出ない夕食で「明日も頑張って働いてくれ」などとは通らない。
という流れの中で「公務員(中間管理職)はつらいよ!」となり、各現場では、酒ではなく薬代として支給・記録するようになった。
それがだんだん、薬→薬酒→粉酒という記載に変化していったことが記録で判る。
こういうホンネとタテマエの間に立って中間管理職が辛いのは古代も現代も変わらないものである。
こんな図書寮の本筋でない講義のところが嫌に記憶に残ったのは、そういう名ばかり管理職のつまらない思い出とダブって私が共鳴したせいかもしれない。
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