1970年代に私は東京にいたが、寺山修司や天井桟敷とは接点のない生活(行動)をしていた。
(当時は肌が合わなかった)
しかしながら、安倍に続く岸田政治を見ていると、この国はどうなっているのだという、寺山が「祖国はありや」と歌ったような「足元から忍び寄る虚無の影」を感じないではいられない。(で、ふとこの短歌を思い出した)
「これは劇薬だが広大な海に流せば何と言うことはないんだ。しかしそれでは愚民は心配だと騒ぐから、流す前にじゃまくさいが海水で薄めてやるんだ。」
「人間なんてホンネはカネに決まってる。予算の名前はいろいろだけど札束が答えを決めるんだ。」‥というような声が聞こえてこないか。怖ろしい声である。
2015年に「関係者の理解なしにはいかなる処分も行わない」と約束した当事者(政府)が、全漁連が「これまで一貫して申し上げてきたとおり、漁業者・国民の理解を得られない海洋放出に反対であることはいささかも変るものでない」と表明している下で放出決定することは、この政府が信用ならない政府であることを、今さらではあるが明らかにした。そのことは考えようによっては汚染水よりも恐ろしい。
意見の違いは種々あろうが、言動には責任を持つのが民主主義の土台の土台であろう。
地下水の流入を阻止する壁の構築、大型タンク、モルタル固定化など前向きの議論が全くなく、トリチウム以外の放射性物質は議論にも上げず、全漁連以外の声は無視。
「今後数十年に渉ろうと政府が責任を持って取り組む」との約束の時効は何年か。答えがあってもその答えも信用できぬ。
安倍晋三氏が明言していた「戦後レジームからの脱却」つまりは民主主義からの超克が新たな世界を切り開きつつある。
「身捨つるほどの祖国はありや」
民主主義の基礎は声である。ネット署名も行われている。そして、各種選挙では、いかなる個別事情があっても嘘を吐く信用ならない政党に投票しないことだ。
そういう意味では私は悲観していない。
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