講談社の『新日本大歳時記』(冬)をパラパラとめくっていたら、アノラックとかヤッケという懐かしい名前が出てきたので、イクジイの夜、娘に「アノラックとかヤッケは知ってるか?」と聞くと、予想どおり「知らん」と返ってきた。
アノラックは今でもモンベルにもあるが、主流はパーカー、もしくはダウンジャケットになっている。
そんな話をしていると、「ホームセンターの作業着売り場にヤッケと書いてあって『なんやろな』と言っていたところだ」と言う。
アノラックもヤッケも基本は同じだが、モンベルなどよりもワークマンの世界に移ったようだ。それでも私が持っていたビニロン性のゴワゴワのものとは格段に進歩している。(写真はネットにあったもの。こういう物だった)
妻が横から「ヤッケは歌もあったのに」と口をはさんだが、高石ともやの『想い出の赤いヤッケ』という歌があった。出だしぐらいは歌える。
1960年代などの労働争議ではヤッケがユニホームみたいな感じだった。ストライキのピケットの応援に行くと、会社側が雇った暴力団などがスト破りに来たが彼らもヤッケだった。だから黄色対青のようにそれぞれの現場では色で分かれていた。自分のヤッケがスト破りの色だと着ておれなかった。
1970年代でもヤッケはデモ行進時のユニホームのような頃があった。懐かしい思い出だが、今はそんな衣装は「配慮が足らん」ということになるかもしれない。
年寄のただの昔語りである。歳時記にはアノラックもヤッケも冬の季語として載っている。
この話は私が山登りやスキーから遠ざかって久しいだけの話かもしれぬ。
でも、回想法・・昔のことを思い出して書いたりするのも認知症予防には非常によいことらしい。
そんなこと、つまらん、と言っていると、人生全てがつまらなくなりそうだから書いておく。
アウトドア派から一言。ご存じだと想いますが、アノラックはフランス語でヤッケはドイツ語、そしてパーカーは英語だと。いずれも防寒・防風用の装束ですね。 孤高岳人より
返信削除孤高岳人さんコメントありがとうございます。どの名称を使うかで年齢が判りそうですね。
返信削除高校卒業を控えていた時、友人と巌寒の穂高に挑んでいた。1966年の2月ころです。友人の辰野君と私はビニロン製のヤッケとオーバーズボンでした。雪まみれにながらラッセルを繰り返しました。今はその馬力がどっかへ行ってしまった。やがて友人はゴアテックスの生地を使ってジャケットや雨具を製品化していきました。75歳になりました。
返信削除すごいコメントありがとうございました❤️ その頃私は信太山辺りでキャンプをしているだけでした。
返信削除藤沢会館、懐かしいですね。また、信太山の黒鳥公園には、「聳ゆるマスト」の偉大な先人 坂口喜一郎の記念碑が建立されてますね、毎年12月には慰霊祭が行われていますよ。
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