2019年7月3日水曜日

戦後開拓村

 「縄文時代が済んで弥生時代になってから人々は争うようになった」という説があるが、水田稲作にとって水(水利)は決定的に重要になったから、水争いも、その争いを指揮するリーダーも、さらにその上を束ねるリーダーも発生したに違いない。本当にそう思う。

   話は近現代に跳ぶが、奈良県の農業用水の不足は積年の課題であった。
 1927年(昭和2)の奈良盆地大干ばつを受け、奈良県は吉野川(下流は紀ノ川)支流にダムを造る計画を立てたが、当然のように和歌山県は同意せず、下って終戦後、GHQの指示というトップダウンもあり、吉野郡津風呂にダム(津風呂湖)を建設することが決まった。

 そこで立ち退きを余儀なくされた50戸(51戸?)のうち27戸(25戸?)は集団移住を希望したが代替地はなかなか決まらず、1957年(昭和32)にようやく奈良市北部に『戦後開拓村』として移転する地鎮祭が行われた。
 その地は行政地名としては奈良市山陵町(みささぎちょう)であるが、自治会名や共有財産を管理する農業開拓組合等の名称は奈良市津風呂町(つぶろちょう)で、通称名であるが堂々と今も存在している。
 現東大寺学園周辺地域で、わが家からも自転車(ただし電動アシスト)で行ける距離にある。

   なぜ田地を含めて30戸近い農家が集団移住できたのかというと、1954年(昭和29)に廃止された奈良競馬場の跡地が払い下げられたからであった。
 この競馬場のことを検索してみると、『読書箚記(さっき)と覚え書』というブログがヒットした。
 そこにあったのが最初の写真で1948年(昭和23)米軍撮影の航空写真だ。一周1600mの巨大なコースが移っている。この外側に各種の施設があり、写真には写っていない北北東の地(競馬場施設跡)が現奈良市津風呂町である。
 ちなみに右肩のところの古墳が伝神功皇后陵で、墳丘長267m、全国12位の規模だから、競馬場のバカでかさが分かる。

 次の写真は2008年(平成20)つまり現在の航空写真で、今でもそれらしい地形が残っている。左にある楕円形がパドック等の跡に造られた現競輪場だから、それからもかつての競馬場の大きさが理解できる。
 この中を斜めに横切っている道は、かつて義母の介護や孫の看護でそっちゅう走っていた道で、そういえば一面の農地で、その周辺にはいくつもあるような伝統的な農家の屋敷のようなものはここにはない。
 奈良市津風呂町の農家の田地もこの中にある。

 以上の話を「こんなこと知ってる?」と妻に話したところ、「10年ほど前に奈良大学の公開授業で聞いた」というのだが、健忘症気味の私はすっかり忘れていた。
 先のブログによると、この不思議な地形から、今でも年に数回奈良文化財研究所等に「平城京関係の遺跡を発見した」という通報があるらしい。
 奈良は古代史だけでなく、近現代史も面白い。

   すぐそこに戦後開拓村があった

 ※ この記事は天理大学芹澤教授の講義をベースに記述した。

1 件のコメント:

  1.  満州や南洋諸島からの引揚者による戦後開拓村というのが全国にあるのですね。
     勉強不足で知りませんでした。
     参考になることがあれば皆さん教えてください。

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