2018年10月8日月曜日

ふしぎな県境

   「注文してあった本が入荷した」と書店から連絡があった。
 西村まさゆき著『ふしぎな県境』中公新書。
 もう少し「ふしぎな県境」を歴史的に紐解いてくれているのかと期待していたが・・・(若干不満)
 でも、そこそこ楽しい本だった。
 
 特に、福島県と山形県、新潟県の三県境。飯豊山山頂を経て幅約1m長さ約8㎞だけが福島県で北東側が山形県、南西側が新潟県という不思議。
 その県境を確認しに登山未経験の著者が死ぬ思いでアタックした話は面白い。

 この辺りは古来、越後、出羽、会津の境目であったが、一帯はほゞ越後の国であった。
 ところが平安末期に越後の豪族城(じょう)氏が会津の恵日寺に土地を寄進し、以後江戸時代まで会津藩領となり、前述のあたりは飯豊山神社の表参道となった。
 ところがところが、ご存知のとおり幕末から明治初頭に会津藩は戊辰戦争に敗れ福島県の一部となり、福島県庁をどこに置くかという騒動もこれあり、内務省は「県庁は郡山」「県庁から遠い”東蒲原郡”は新潟県」という処分を下した。
 それを機に新潟県側から「飯豊山神社を東蒲原郡の郷社にしたい」という願いがだされ、猛反発した福島県側一ノ木村と対立し、ようやく明治41年、現在の森林管理局が一ノ木村の主張を認め、飯豊山神社の境内地と参道(登山道)だけは福島県になったらしい。
 著者の登山記録も併せてこの話は面白い。

   予想外にアホらしかったのは「ふしぎな県境」として私の街が出ていたことで、「ニュータウンのショッピングモールの建物の中に県境がある」と不思議でも何でもないことが紹介されていたことである。

 この辺りはいわゆる平城山(ならやま)で、都(平城京)の背後の山だった。
 故に山背(やましろ)であったが、好字令で山城(地域)となって今日に至っている。
 アホらしついでに県境のラインの上で写真を撮った。手前の足が京都府、後ろの足が奈良県である。それがどうした。

 ちなみに、ラインの両側にはKYOTOとNARAの文字やイラストがあり、私が手を掛けているモニュメントは背中合わせにそれぞれの府県のショーウィンドーのようになっている。

 建物の外の周辺の県境はジグザグしているが、ショッピングモールを西に向かうと終末期古墳の中では超一級といわれる石の唐戸古墳(石のカラト古墳)がある。高松塚古墳と非常によく似ている。
 白石太一郎先生などは藤原不比等の墓の可能性が無きにしも非ずと述べられているが文献と微妙に相違している。(不比等は佐保山に葬られたと文献にあり、佐保山はもう少し東側である。この辺りも佐保と呼ばれていたという史料でもあれば可能性が高まるという話)
 謎の「皇族か高級官僚」という点では見解はほゞまとまっている。
 この古墳を京都側では風灰古墳(カザハヒ古墳)と呼んでいた。
 お察しのとおりこの古墳も県境の真上にあるので名前が二つある。
 後世の人間(村どおし)が手を打って線引きしたのだろうが、古墳時代の築造者はきっと都(奈良)の北辺に造ったつもりに違いないと私は思っている。

   イマジンが笑う県境の本楽し

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