2018年10月21日日曜日

日本建築

   奈良、興福寺の中金堂が再建された。興福寺の多川貫主の話は度々聞く機会があったが、「創建当時のまゝ再建した」ことの自負が端々から窺えた。

 私などは、大仏殿が鎌倉や江戸時代に新しく再建された東大寺に対するライバル意識のようにも思えておかしかった。

 興福寺の「創建当時のまゝ」とは、基壇や礎石をくり返し利用して、創建時と同じ規模、同じ形式を踏襲してきたことをいう。
 このことはやはり自慢するだけのことであり、再建された中金堂は藤原不比等の時代をいろいろ想像させてくれる。立派なものである。

 さて、日本の住居というと木造建築だが、西欧、中近東、中国大陸の住居(跡)というと、石や土あるいは日干し煉瓦や泥が多い。
 私は何となく諸外国の思想の方が堅実で日本の木造建築の方が安直な気がしていたが、彼の地では牧畜や気候のせいで木=森が少なく木造建築は貴重だったようである。
 その「木の国」で森林が荒廃していっているのを看過していていいのだろうか。

 次に日本では宮殿や寺院以外の庶民の住居が礎石づくりでなく掘っ立て柱であった理由だが、瓦が貴重であった時代では、礎石づくりの小さな家は台風でそのまま飛ばされたことだろう。
 先日来の近畿直撃の台風を見て、「なるほど掘っ立て柱にもそれなりの理由があるのだ」と感心した。手抜き工事ではなかったのだ。

 これらは全く私のオリジナルな考えでなく、小笠原好彦先生の講義から大いに示唆をいただいたものである。
 お陰で、柱穴から住居を復元する考古学は世界のトップらしい。
 奈良周辺に住んでいると発掘現場など珍しくもなんともないように思えるが、実は大変なものらしい。勉強とまでは言えないが、興味も尽きない。

2 件のコメント:

  1. 以前、地中に埋もれている出雲大社の心柱の発掘調査から昔の出雲大社が高さ50メートル近い神殿だったことがわかり驚いた事を思い出しました。(地震の後片付けがまだまだで以前買った日本建築の本を探したが見つからず参考になるコメントができず残念。)

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  2.  出雲大社は上古(飛鳥頃まで)32丈、中古(平安)16丈、その後8丈といわれており、32丈は96m、27階建てのビルに相当します。
     本殿は何回も倒壊、再建されたようで、鎌倉前期の柱穴から直径3mの柱の根元が出てきて、言われてきた高さが大法螺ではなく史実らしいとされています。
     奈良の弥生の遺跡である唐古・鑓遺跡からも大きな柱の根元が出ていますから、古代を馬鹿にできないと思います。

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