日本野鳥の会のマガジン『Toriino』vol.47の藤原新也氏の(写真の)文章にはいろいろ考えさせられた。
非常に中身の濃い文章なので要点を抜粋することも適わないが、BS朝日の『沖ノ島・藤原新也が見た祈りの原点』という番組が世界的な大会で銀賞になった際、氏は担当統括に「なぜグランプリでなかったかを・・考える必要があるね」と言ったという。
氏のいうのには、実は本当は放映しなければならない肝の部分が、見事にカットされていたらしい。
その一つは、若い神職に氏が「少し祝詞のリズムが早い」と注文をつけ、「神とのキャッチボールが出来ていないから早くなる。そのことは場の空気を読んで人の話をじっくり聴くこともなく、いち早く返事を返す最近の若い人の会話にも現れている」という趣旨の部分。
二つには、「古代の人々は、人間の持つ全能感に、どこか歯止めをかける必要があるという意識があり、人間が触れてはならない禁忌の場を設定した。だが近代の人間はそれに触れ始めた。ウランの取得がその象徴だ。核爆弾は言うに及ばず、原発でさえそれが破綻した時、人間を滅ぼす凶器となる。このように自然の領域において、そして個人の(プライバシーやアイデンティティの)領域においても、禁忌の領域が情報化されるこの時代において、禁忌の島である沖ノ島の示唆する意味は大きい」という部分。ここもカットされていたという。
海外のドキュメント番組には日本のような忖度がない、というより、ここまでやっていいのかと思わせるものすらあると氏は指摘する。
そして氏は、それはただスポンサーへの「配慮」だけでなく、送り手と受け手が、気持ちのよい時間と空間を共有したい(浸りたい)という日常があり、その気持ちよさにそぐわないものはおのずと排除されるわけだ。昨今のテレビの気持ち悪さはここにある。と鋭く指摘している。
我が身を振り返ってみて、日常の人間関係で空気を壊したくないという態度をとることは多分にある。
氏の指摘された重要な示唆も解るが、空気の読めない野暮天もどうかということもある。
「重要な指摘に勉強になった」とこの記事を締めたいが、そう軽々しく言えない自分がいて悩ましい。
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