2012年7月26日に『なら町の地蔵盆』というのをこのブログに書き、「新暦7月にお盆だという東京風には今も馴染めない」し、同様に「なら町の地蔵盆も7月であるのはどうも・・・」という気持ちで文章を綴ったが、6年越しでその答えを聴く機会が突然やってきた。
教えていただいた奈良大学史学科村上紀夫准教授によると、京都の地蔵盆の史料では、1655年没の鈴木正三の『反古集』や、1674年の『山城四季物語』、1676年の黒川道祐『日次紀事』等に「近頃始まった」旨見られるとおり、近世の「無仏世界※の地蔵信仰」が広まった京都で、町という共同体が地蔵信仰を担って定着していった。(※釈迦が入滅してから弥勒菩薩(みろくぼさつ)が出現するまでの世界。この間は地蔵菩薩が衆生を救うという)
熊野比丘尼の絵解きなども大いにこの地蔵信仰を広めた。
そして旧暦7月(新暦8月)のお盆の行事と絡んで旧暦7月(新暦8月)の地蔵菩薩の縁日24日に行われるようになり、滋賀、大阪、兵庫、福井に広がった。(近畿以外にはほとんどない)
それに対して奈良(なら町や奈良市周辺)では、『大乗院寺社雑事記』に「毎月24日に地蔵法楽・地蔵講」とあり、興福寺大乗院門跡尋尊が1472年からなら町周辺の地蔵尊の霊験を書き留め、1478年には福智院地蔵堂修理のための勧進聖(善久をリーダーとする6人)を仰せつけ、その勧進聖が6万躰のお札を配って歩いた。特に福智院の地蔵について「此地蔵の腹内に春日大明神御作の地蔵奉納之云々」と、春日社、興福寺あげての布教が進んだ。時代的にも起源も京とは別に・・・
そのうちに「毎月24日」が整理され、江戸時代には旧暦6月(新暦7月)が主たる地蔵法楽となった。
以上のとおり、6年前に私が類推した「明治の旧暦から新暦への切り替え時になら町が新暦に乗った」ものではなく、元々ルーツの異なるなら町の地蔵盆はそもそも旧暦6月の行事だったのだ。
その後の府県を超えた交流の中で、行事の形態はお互いに影響し合ってよく似たものになっていったが、重ねて言うが、京の町衆の行事と、奈良興福寺・春日社主導の行事は別物であったのだ。
以上、全くもって現代社会の諸問題とはほとんど関係のない話であるが、6年間引っかかっていた小骨が取れたような気分になっている。
宿題の憂鬱提げて地蔵盆
8月24日の地蔵盆は夏休み最終盤の楽しい行事だが、夏休みの終了を告げる予鈴でもあった。
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