「自衛隊が自ら日報破棄するわけがない。政府側が野党からPKO 5原則が崩れていたのに自衛隊を撤収しなかったのではないかという追求を避けるために破棄したと言えと、自衛隊に指示をしたのではないかと思う。政府側というのが、防衛大臣か、事務次官か、統合幕僚長か、陸上幕僚長かはわからない。」・・・正論だろう。
これからすると、森友事件の近畿財務局が資料を破棄するわけがないし、加計事件の各省の記録もそうである。
役所=公務員は文書で仕事をするものである。
面談や電話であっても少し大切な事項は文書でその内容を上司に報告し、いわゆる「下駄判」という欄に上司の判子を受けておくのである。
特に政治家がらみ、マスコミがらみの事案はそうしておくのが公務員の大常識で、判子を押した限りは責任を取るというのが公務の管理職の掟である。
だから、佐川前理財局長は単純に口が堅かったから国税庁長官に格別の出世をしたわけではない。
彼が持っている証拠の束を未来に向かって封じるがために権力側が昇進という形で囲い込んだのである。
重ねて言うが、日本の行政機関において、話題になっているような諸資料が保管されていないことは断じてない。
そんなことは圧倒的な公務員が知っている。
問題は、前川氏ほど強くない公務員が、それも現職のままでそれを告発できるかどうかである。
以下は、私も迷いながら書くのだが、その昔、ハンナ・アーレントのアイヒマン裁判というのがあった。
ゲシュタボ(ナチスの秘密国家警察)のユダヤ人「最終解決」(行政的大量殺戮)の実行を担っていた責任者アイヒマンが1960年に逮捕され、イェルサレムの法廷で裁かれた裁判である。
アーレントは「どんな怪物的な悪の権化か」を確認するためにイェルサレムまで傍聴に行ったのだが、そこにいたのは、「紋切型の文句の官僚用語をくりかえす凡庸な男」であった。
アーレントは、この男を含めヒットラーの暴挙に「沈黙し続けた」庶民も批判したものだから物凄い非難を受け、今風にいえば新聞・ラジオで炎上した。
しかし彼女は屈せず、「独裁体制のもとでの個人の責任」を要旨次のように追及した。
一人前の大人が公的生活のなかで命令に「服従」するということは、組織や権威や法律を「支持」することである。
ナチ政権下の役人は「歯車」であったかもしれないが、法廷では一人の人間として裁かれるのは当然だ。
絶望的な状況下では「自分の無能力を認め」不参加・非協力を選ぶべきだ。
自己との対話で、ある思考の能力を保持しえた人たちだけがそれを選ぶことができる。
政治の場とは子どもの遊び場ではない。と・・・
歴史的背景は異なるし、今の日本には憲法もあり労働組合もある。
だから、結論の形には発展形があっても構わないと思うのだが、アーレントが公務員労働者に突き付けた問題意識は重要だ。
あまり話を広げるつもりはないが、民間企業も含めて現代サラリーマンに共通する課題だろう。公害問題、データ偽装問題等々も同じだ。
安土敏氏が発案し佐高信氏が広めた言葉に「社畜」がある。
きつい言葉だが良心を売った会社員を「社畜」と呼んだのは的外れではない。
それに対して一人の英雄が立ち向かうのも立派だが、英雄でない庶民が普通に立ち向かえる環境こそが大切だ。
安土敏氏が発案し佐高信氏が広めた言葉に「社畜」がある。
きつい言葉だが良心を売った会社員を「社畜」と呼んだのは的外れではない。
それに対して一人の英雄が立ち向かうのも立派だが、英雄でない庶民が普通に立ち向かえる環境こそが大切だ。
と考えると、私は現代日本社会に一番欠けているのは民主的な労働組合・労働運動だとリアルに思う。
その下で勤労者が自己の良心と真摯に対話することで世の中は変わらないだろうか。
その下で勤労者が自己の良心と真摯に対話することで世の中は変わらないだろうか。
そういう観点から、リタイヤしたOB・OGも現役世代の労働運動をもっと支援する術はないものだろうか。正解を持っているものではないが・・・
蛇足かもしれないが30日の朝日新聞の「政治家の言葉」という保阪正康氏と斎藤美奈子氏の対談の中で保阪氏が、―忘れてはいけない政治家はいますか―というのに答えて、『昭和11年の衆院本会議で粛軍演説をした斎藤隆夫を記憶しておくべきだ』といい、『4年後の「反軍演説」で除名動議が出され7人が反対、296人は賛成、144人が棄権欠席。この144人が人間の弱さを示していると思う。僕らは勇気ある7人にシンパシーを持たなくてはいけない』と語っているのも、戦前を知っている自称保守の歴史家の戦後世代への遺言のように私には思えた。
音が溶け蝉も鳴かない昼日中
蛇足かもしれないが30日の朝日新聞の「政治家の言葉」という保阪正康氏と斎藤美奈子氏の対談の中で保阪氏が、―忘れてはいけない政治家はいますか―というのに答えて、『昭和11年の衆院本会議で粛軍演説をした斎藤隆夫を記憶しておくべきだ』といい、『4年後の「反軍演説」で除名動議が出され7人が反対、296人は賛成、144人が棄権欠席。この144人が人間の弱さを示していると思う。僕らは勇気ある7人にシンパシーを持たなくてはいけない』と語っているのも、戦前を知っている自称保守の歴史家の戦後世代への遺言のように私には思えた。
音が溶け蝉も鳴かない昼日中
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