歴史のいたずらというような言葉があるがそれはFさんのことかも知れない。Fさんはナガサキの爆心地の近くに住んでいた。
それが生き残った理由のひとつは8月9日の2日前に疎開していたからである。
しかし、疎開していたからと言ってナガサキを離れていたわけでなく、当日は爆心地に一番近い旧制中学校である県立瓊浦(けいほ)中学校にいた。
空襲警報で防空壕に逃げた後、警報解除で浦上駅にたまたま来た列車に乗り、少し離れた長与駅の列車の中にいた時に原爆は爆発した。
もし2日前に疎開していなかったら、警報解除で下校していなかったなら、浦上駅に列車が来ていなかったら、長与駅で列車の外に出ていたら、Fさんは亡くなられていた可能性が高い。
長与駅で爆心地方向から押し寄せるヒバクシャの姿は見ていられなかったという。
さらに翌日には、実家の様子を見に市内に入ったのだが、そこで見た惨状は言葉にならないという。
そういう話をされているF先輩は、証人がいないということで今も被爆者手帳をもらえていない。
決して「戦後」は終わっていないのだ。
決して「戦後」は終わっていないのだ。
核兵器のことや天皇と政府と軍部のこと、アメリカの戦争法違反のことなど書きたいことはいろいろあるが、近頃の南スーダン日報問題や北朝鮮のミサイル問題に触れて以下に一言だけ書いてみる。
日本政府は昨今、ミサイルが発射されたなら◆できる限り頑丈な建物や地下に避難する。◆物陰に身を隠すか、地面に伏せて頭部を守る。◆窓から離れるか、窓のない部屋に移動する。・・・ようにとテレビ等で繰り返している。
さて当時、ヒロシマ被爆の翌日、朝日新聞は中部軍管司令部赤塚中佐の談話を掲載し「従来の戦訓を徹底励行し、地下に潜ることに徹すれば何時怖がるべきものではない」と報じた。
9日のナガサキでは、大本営は投下の事実さえ発表せず、西部軍管司令部は「新型爆弾らしきもの」「被害は比較的僅少なる見込み」と発表。朝日新聞は3日後、わずか7行の付属記事だった。
多くの識者が今の政治状況を「戦前」と捉えて警鐘を鳴らしているが、昭和前史を学ぶことがほんとうに大切になっているということをFさんの思い出を書きながら再確認した次第。
4日に転載した「灘中校長の所信」も非常に参考になる。
顔熔けしマリア悲しき炎暑かな
4日に転載した「灘中校長の所信」も非常に参考になる。
顔熔けしマリア悲しき炎暑かな
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