2017年8月14日月曜日

迎え火

 暇な時には折口信夫(おりくち しのぶ)の民俗学の本を気楽に読むのがいい。河童の話、鬼の話、盆踊りの話、信太妻の話などなど、今日明日の生活には全く関係なさそうな話は気楽で楽しい。

迎え火
   折口は言う、仏教など外来の文化が定着する(した)ときとは、元々日本列島にあった考えやしきたりと上手く融合したときだと。
 例えば古く信じられていたところでは、神や魂は、通常は山の奥や海の彼方にいるが、季節の区切りなど人々が必要な時にはそれを呼び、また、用が済んだらできるだけ早々に帰ってもらおうと古人は考えたという。
 仏教のお盆の行事が定着したのは、そういう古い考えと上手く重なったからという理由もあると。
 そして、神や魂に正しく来てもらうには、依代(よりしろ)、標山(しめやま)が必要で、迎え火はそういう標山の一種だというのが折口説である。

 同時に、往々にして、来てもらいたい神や魂と一緒に悪い神、悪い魂が紛れ込んでくることが多いから、それらを阻止する「行事」もいろいろ必要だと考え、お盆の行事が完成していったという。

和菓子のうちわ
   小さい頃、祖母は「お盆に昆虫採集をしたらあかん」とよく言った。
 それは、仏教の不殺生戒の戒めであるとともに、先祖の霊が昆虫(特にトンボ)の姿で帰ってくるので、捕まえたトンボは実はお祖父ちゃんかも知れんという話だった。
 私の育ってきた浄土真宗の環境では、迷信を排した合理的な思考であったからそんなことは微塵も信じなかったが、そういう素朴な信心も私は嫌いではない。
 今年は白蒸しを食べ、仏前には例によって私の好きな団扇の和菓子を供えた。実母も好きだった。

 それに、・・・来ては貰ったが、神や魂は少々迷惑なものだから、接待をして早々に機嫌よく帰ってもらうという折口説はなんと人間臭い解釈だろう。
 なので写真のとおり迎え火を焚いたが、16日には送り火に乗って早々にお帰り頂こうと私も考えている。

 なお、この折口の説は再度文献を当らずに私の記憶で適当に書いているので、「折口信夫はこう説いている」と孫引きしないでもらいたい。
 寝苦しい夜に思いついた駄論である。

    盆の内翅(はね)伸ばすかな秋津洲(あきつしま)

1 件のコメント:

  1.  16日には送り火を焚いた。そのことの記事は17日にアップする。

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