迎え火 |
例えば古く信じられていたところでは、神や魂は、通常は山の奥や海の彼方にいるが、季節の区切りなど人々が必要な時にはそれを呼び、また、用が済んだらできるだけ早々に帰ってもらおうと古人は考えたという。
仏教のお盆の行事が定着したのは、そういう古い考えと上手く重なったからという理由もあると。
そして、神や魂に正しく来てもらうには、依代(よりしろ)、標山(しめやま)が必要で、迎え火はそういう標山の一種だというのが折口説である。
同時に、往々にして、来てもらいたい神や魂と一緒に悪い神、悪い魂が紛れ込んでくることが多いから、それらを阻止する「行事」もいろいろ必要だと考え、お盆の行事が完成していったという。
和菓子のうちわ |
それは、仏教の不殺生戒の戒めであるとともに、先祖の霊が昆虫(特にトンボ)の姿で帰ってくるので、捕まえたトンボは実はお祖父ちゃんかも知れんという話だった。
私の育ってきた浄土真宗の環境では、迷信を排した合理的な思考であったからそんなことは微塵も信じなかったが、そういう素朴な信心も私は嫌いではない。
今年は白蒸しを食べ、仏前には例によって私の好きな団扇の和菓子を供えた。実母も好きだった。
それに、・・・来ては貰ったが、神や魂は少々迷惑なものだから、接待をして早々に機嫌よく帰ってもらうという折口説はなんと人間臭い解釈だろう。
なので写真のとおり迎え火を焚いたが、16日には送り火に乗って早々にお帰り頂こうと私も考えている。
なお、この折口の説は再度文献を当らずに私の記憶で適当に書いているので、「折口信夫はこう説いている」と孫引きしないでもらいたい。
寝苦しい夜に思いついた駄論である。
盆の内翅(はね)伸ばすかな秋津洲(あきつしま)
16日には送り火を焚いた。そのことの記事は17日にアップする。
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