2017年8月6日日曜日

ヒロシマであった地獄

   ヒロシマに原爆が投下されてから72年が経った。その3日後にはナガサキに投下された。実際の戦争で原爆により人が殺されヒバクシャが生み出されたのは人類史上この2回だけだが、その生き証人たるヒバクシャは自然の摂理のために減少している。

 「踏まれた者の痛みは踏まれた者しか判らない」という人もいるが、それはあまりに人の理性を信じない立場ではないか。
 戦後生まれの私たちはヒバクシャにはなることができないが、ヒバクシャの訴えを理解し共感し伴に並走することはできる。少なくとも私が知ったヒバクシャの話を語り伝えることはできる。「自惚れるな!」とのお叱りもあるだろうがそう信じたい。きっとヒバクシャの苦労の何万分の一も解っていないだろうが。

   私の労働組合活動の大先輩にヒロシマ(と中国地協)のヒバクシャのYさんがいた。
 仕事の上でも広島の幹部であったし「Yさん天皇」と言われるぐらい恰幅のある堂々たる人だった。
 組合活動の中ではそれまで原爆の話はあまりされては来なかったが、日本からニューヨークの国連その他に核兵器禁止を訴えに行く大きな運動があったとき、わが組合から代表で送ることになった。そしてアメリカのテレビに出演するなど活躍をして帰ってこられた。

 そのときのことである。
 労働組合の大きな会議でYさんが訪米活動の報告をし、その夜、私はYさんと同じ部屋で寝た。すると・・・、
 夜中に「ウォー!!」という、文字では言い表せない悲鳴が聞こえた。Yさんが心臓発作でも起こしたかとびっくりしたがそうでもなく、ただその悲鳴は何回も続いた。
 怖ろしい悲鳴であった。怖ろしい地獄のような一夜であった。

 翌朝Yさんが「長谷やん、わし夕べ大声を出さんかったか?」「心配させたのと違うか」と言ってきた。
 「昼に原爆に触れた話をすると必ず夜中にうなされるんじゃ」「うなされるのが怖いから昼でも原爆の話はしとうないんじゃ」とも。
 後に私は業務としてPTSD(心的外傷後ストレス障害)やフラッシュバックについての事案を何件も担当する機会があったが、その度にこの夜のことが思い出され、その辛さを想像することができた。これは余談。

 Yさんが労働組合の幹部であるにもかかわらず平和運動にも取り組むわが組合活動の中で、なかなか嫌がって原爆の話をしてこなかったのはこういうことだったのか。
 「ヒバクシャの苦しみは他所のもんには判るか」というので黙っていたのではなかったのだ。そういう気持ちが少しはあったかもしれないが・・。
 その時初めて、知識としてのヒロシマとヒバクシャの苦しみを私は心に刻むことができたような気がする。
 そして、この話を語り続けるのが戦後生まれの私の役割だと思うことにした。

 なので、どこかでその話は聞いたぞと言う方がおられても、何回も語り続けようと思う。
 高邁な話を1回語ると世の中が変わるならこんなに簡単なことはない。何回でも何十回でも機会があれば思い出して自分の言葉で語ることが大切だろうと自分に言い聞かせている。

 なお、国連が採択した核兵器禁止条約の記事(2017.7.22)は下記のとおり。併せてお読みいただければ幸いだ。日本政府は核兵器禁止条約を批准せよ! 
 http://yamashirokihachi.blogspot.jp/2017/07/blog-post_22.html

    折鶴のバッジに朝陽やヒロシマ忌

5 件のコメント:

  1.  FBに堺の平和のための戦争展で調御寺加藤住職の講演の様子が幾つか報じられている。素晴らしいことだ。

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  2.  昨日の報道特集。仲代達也さんの話。
     友達の家に行く途中で焼夷弾爆撃に遭った。小学生位の女の子がいたので手を繋いで逃げた。焼夷弾がその子を直撃し気がついたらその子の手だけを握っていた。恐ろしくなってその手を投げた。今もその事を考えている。

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  3.  今日は『堺平和のための戦争展』で、調御寺の加藤住職が、戦災と道路拡張で古刹が破壊されたこと、国道上に残っている井戸枠を文化遺産として保存させたいことなどを語られた。
     その話の中で、私のこのブログ記事を読みあげて平和を訴えていただいた。
     身に余る光栄だった。

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  4. 原水禁世界大会で訪れた平和資料館の展示物に大きな衝撃を受けたのを思い出します。そして、まだ小学生になったころくらいに、父親が寝間の中で話してくれた高松大空襲の跡片付けに行った時の話--当時父は15歳、修練道場の仲間とともに、空襲後の高松へ後片付けに動員され、がれきを片づけたりしたそうだが、仲間が面白半分でトタン板をはぐると、その下には黒焦げになった死体が...その夜はずっと眠れなかったのを思い出しましたが、この話が心の中に澱のようにとどまっていて、何かあると浮かび上がってきます。そういえば、生前の父は、孫(私の息子)にもこの話をしていたようです。「何回でも、自分の言葉で語り続けること」、本当にその通りだと思います。

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  5.  猫持さん、コメントありがとうございます。
     今日の新聞に高校3年生のしらけ具合が載っていました。そこには新聞を購読している家も20%とありました。こういう世代に、戦争を知っていた世代と橋渡しをする役割が私たちにはあると思います。それは何回でも自分の言葉で語り続けることだと考えています。
     今後ともよろしくコメントをお願いします。
     お父さんの経験談も貴重な話でした。

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