2017年8月17日木曜日

送り火

   14日に『迎え火』という記事を書いた以上16日の『送り火』にも触れたい。
 先の記事で浄土真宗及び真宗(東西両本願寺)の教えは合理的で世間一般に信じられているような迷信を排してる旨書いたが、そのことを述べてみたい。
 と言っても、私ごときはそれらを述べられるほどの知識もないから、手元の瓜生 中氏の本から摘むだけである。

 ■盂蘭盆会
 「仏説盂蘭盆経」はインドではなく中国で作られたお経であり行事である。
 内容は、目連尊者が、母親が餓鬼道に堕ち苦しんでいるのを助けたいと釈迦に聞いたところ、安吾あけの修行僧に御馳走を振る舞うと先祖が救われる=追善供養すべしと教わったというものである。
 しかし親鸞は、それに対して、阿弥陀如来の本願を信ずるものは全て往生が約束され餓鬼道に堕ちるものはないのであるから、追善回向など全く不要と説く。

 ■霊魂
 釈迦は霊魂の存在について考えてはならない。確かめようのないものに惑わされ怯えるのは実に愚の骨頂だと言っている。そんなことを考える暇があったら、自分が如何に正しい生活や行いをすべきかをしっかり考え実行しなさいと言っている。
 親鸞も、そういう釈迦の教えに基づいて、「日の吉凶を重視し、神々を崇(あが)めて、占いによって事を決する」という世間の遅れた状況を嘆いている。

 ■法会
 以上のとおり、追善も占いも祈祷もしない両本願寺では、法会などの宗教行事は、阿弥陀如来の恩に報い功徳に感謝する『報恩謝徳』のためのものであり、念仏に親しんで先祖の恩に報いる場と説いている。

   以上、あまりに簡単すぎるが、親鸞の教えはこういうものであり「迷信を排した合理的な思考だ」と私が書いた所以である。
 だとすると、追善回向しなければならないような霊、ましてや『迎え火』がなければ道に迷って帰って来れないような惨めな霊などないのであるから、迎え火も送り火もナンセンスなのである。

 といいながら、私が14日や今日のこんな記事を書いている(そういう行事をしている)というのは、解ってはいるが何か形式を踏まないことには日常に流されてしまう凡夫としては、アスリートの「ルーティンワーク」のように、迎え火・送り火のような「陳腐な」作業(動作)を通じて仏の教えを思い出し、そして接近したいと考えるからである。
 もしそれが全てナンセンスというのなら、仏教行事において、およそ凡夫に通じぬ古典の中国語のお経を読むなども問題外になってしまうと私は感じている。
 こうして私は、親鸞の研ぎ澄まされた哲学を称賛しながら、土俗の民俗行事を種々なぞって喜んでいるのである。
 と、偉そうな事を書いたが、実際には夫婦して「お祖母ちゃん!凜ちゃんを見守ってや!」と送り火に向かって呟いている凡夫中の凡夫である。

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