ひしやもんの おもきかかとに まろひふす おにのもたえも ちとせへにけり (東大寺三月堂の毘沙門像の足下に転がり伏す邪鬼の悶えも千年を経たことになろう)奈良をこよなく愛した歌人・會津八一の歌である。
絵本『大仏くらべ』の中に紹介されていた。
「先の戦争」というと京都の人にとっては太平洋戦争ではなく応仁の乱(1467ー1477)のことであるというのは「常識」らしいが、これが東大寺や興福寺のお坊さんの話になると、平重衡の南都焼討(治承4年1181)が全く同じように、千年(ちとせ)の昔も昨日あったことのように語られる。
故に南都は反平家・親源氏となり(正確には親平家にならなかったので焼討を受け)、鎌倉期の大仏殿の復興は頼朝に大いに負うところとなった。
以前にOB会の写経でお世話になった部屋は、鎌倉期大仏殿落慶供養の際、頼朝・政子の宿所であったと聞かされて、改めて南都に漂う時空の大きさに感心した。
そして、奈良と鎌倉というのもけっこう縁があるということにも感心した。
文・大江隆子、絵・松田大児のその絵本『大仏くらべ』の後ろの方には松田画伯の次のような文があった。
十二月十七日晴れ
狂言『大仏くらべ』の挿絵を描くことになり、東大寺福祉療育病院(重度心身障害児施設)で打ち合わせ。終了後、院長先生、師長さん、お坊さんに院内の案内をしていただく。
はじめに入った部屋は、暗がりにイルミネーションがキラキラ光る中、療法士さんがピアノを弾き、クリスマスソングを歌っている。お父さんに抱かれた小さな子、鼻にチューブを入れ乳母車に乗って、一点を見つめている女の子がいた。
次に、重度の方の入院病棟へ行く。手を消毒しマスクをした。扉が開くと、採光の良い明るい部屋に医療器具を付けて寝ている子どもたちのベッドが並んでいる。看護師さんたちの表情が明るい。初めて見る光景に少し圧倒されたが意外に冷静な自分がいた。
ひと通り案内してもらった後、お坊さんは「子どもたちに狂言『大仏くらべ』の紙芝居をしてあげたいんです」と言われた。師長さんは「子どもたちから元気をもらうんです」、院長先生は「短くとも深く・・・」、そんな話をされた。
久しぶりに美しいものに出会った、良い一日であった。(日誌より)
この後、一気にこの絵本の絵を描いた。――と。
さて、絵本の元となった創作狂言『大仏くらべ』の奉納公演を鑑賞した。
茂山千五郎(大蔵流千五郎家十四世当主)、山本則孝(大蔵流山本家)、茂山茂(大蔵流狂言方)、松本薫(大蔵流狂言方)、小野寺竜一(一噌流笛方)、曽和正博(幸流小鼓方)、渡部諭(石井流大鼓方)で、
会場は東大寺本坊で、借景には影向の松の代わりに新緑の若草山や校倉造りの国宝の経庫という贅沢だった。
奈良に住まい致すもので御座る
奈良の大仏さま程
大きな大仏さまはあるまいと存ずれど
鎌倉にも大きな大仏さまがおわしますと
聞き承れば
なかなか 油断のならぬ事で御座る ・・・・・
近頃のニュースを見聞きしていると、どうしても心が乾燥してしまうが、6月ではあるが快晴の五月晴れの下、気分よく「あはは あはは」と笑った。
こんな日も大切だ。
狂言や笛と鼓と蛙の音
三月堂の前の小池ではボー ボーとウシガエル(食用ガエル)が鳴いているが、周辺全体では非常に減っていると聞いた。
返信削除その理由は、フランス野郎ではないグルマンの登場らしい。答はアライグマだとか。
自然破壊は思いのほか進んでいる。
狂言「大仏くらべ」作者の大江隆子さんからメールを戴いた。
返信削除(障害があったりする)子どもにも見やすい紙芝居も制作中だという。
嬉しい話題だ。