目神堂(もくしんどう?)には『め』という字と祈願人の名を書いた紙がいっぱい貼られていたという古老の証言がある。
明治の神仏分離令以前は神仏習合こそが寺社のスタンダードであったから、お寺に「目の神さん」が祀られていたとしても全く不思議はないが、それにしても、その信仰はいったいどこから来たのだろう。
山折哲雄監修『日蓮と日蓮宗』(洋泉社・歴史新書)には、身延山中興の祖、久遠寺十一世・日朝(1422~1500)について、『日朝は六十一歳のときに失明する。しかし法華経への厚い信仰によってそれを快復、治癒させたといわれる。そして六十七歳のときに「眼病消滅本尊」を揮毫し、法華信者が眼病で苦しんだときには、それを守護して平癒させるという願を立てた。以来、日朝ゆかりの寺院は「眼病治しのお寺」として知られている』とある。
もし、派の壁を越えて同じ日蓮系宗派として交流があったとすれば、調御寺にこの信仰が受け入れられていたのかもしれないが、教義上大きく二派に分かれていた日蓮系宗派の中で、「一致派」に属する日蓮宗(身延山)と「勝劣派」に属する法華宗真門流の距離が気になる。
次に、同上『日蓮と日蓮宗』には、「日蓮が立教開宗をする前に・・妙見菩薩から護持の誓いを得たと伝えられている。・・・このようなことから・・・妙見菩薩をまつり・・・星祭り祈祷会を行う寺院も多い。俗信として「妙見」という名前から眼病平癒に霊験ある仏としても親しまれている」とも記述されている。
俗信の依って来るところは記されていないが、「妙見=事の善悪や真理を見通す力」を「妙なる視力」と解したと指摘している説が本やネット上には多数見受けられる。
そこで『新潮日本語国語辞典』で『妙見(妙見菩薩)』を牽くと「国土を守護し、災厄を除くという。北極星の神格化・・・、日本では眼病の治癒を祈る修法の本尊とする」とあった。
国語辞典であるから、その基が俗信にあったのかどうかは未整理だが、古く妙見信仰が「眼病平癒」に霊験あらたかとされていたことは明らかになった。
そもそも病気の原因が深く解明され的確な治療法が確立したのは、戦後のことであり、故に、古い時代には眼病患者も多く、人々がその対策を神仏に求めたであろうことも当然で、各地の薬師如来や地蔵菩薩がその対象になったであろうが、その一角に妙見信仰があり、妙見信仰を包含した法華の信仰が大いに「眼病平癒に期待」されていたのだろうと推測する。
戦災による記録消滅でそのお堂の本尊が解らないのだが、もしかしたら妙見菩薩であったのかもしれない。
本尊であったかどうかは解らないが、小さな妙見菩薩像は今も残っており、煤け具合からは相当古いものだと思われるが、それ以上は今のところ解らない。
本尊であったかどうかは解らないが、小さな妙見菩薩像は今も残っており、煤け具合からは相当古いものだと思われるが、それ以上は今のところ解らない。
文化の継承の観点からも戦争はよくない。
熱風や熱のこもれる講演者
0 件のコメント:
コメントを投稿