記事とは関係ない 河島英五の描いた絵 |
同機構は高速増殖炉「もんじゅ」も持っており、「もんじゅ」は再三の事故、その隠ぺい等でさすがの自公政権でも廃炉が決定された原子炉である。
故に、「世界一安全」と首相が宣言した日本の原子炉の中でも、事故対策や安全対策の経験は一番あったはずの機構である。
その機構でまたまた被曝事故が発生したことも驚きだが、もっと驚いたことは、室内に飛散したプルトニウム等が室外に漏れないようにということで、5名の被災者がそのまま3時間も汚染された室内に閉じ込められたということだった。
被災者救出のためにはどうしても有毒物の飛散が避けられないという性格の事故はあるにはあるだろうが、やはり原発事故というものは、異質のレベルの事故だろう。
当然のように、同機構は要旨「この作業で事故が発生することは想定していなかった」と説明した。
フクシマのときも「想定外」という言葉を何度聞いたことだろう。
そして私なども、感情の上では「想定外」という言葉を受け入れざるを得なかった。
なぜなら、わずかながらも市民運動に携わった経験もあったが、「原子力の平和利用である原発」という図式については半ば信じ込み、それを正面から批判し反対しては来なかったからである。
そのため、フクシマののち私は、相当重い自責の念に駆られたものだった。
一方テレビでは、「想定外」と同義語のようにいろんな人から「知らなかった」という言葉が繰り返し流された。
それは、「原発事故の恐ろしさを知らなかった」から「知らなかった私には責任はない」という文脈の中で語られていた。
しかし、冷静に反省してみると、それは「知らなかった」ではなく「知ろうとしなかった」のではなかったか。厳しいようだが、そういう自省がなければ市民として許されないのではないかと考える。
もし、「フクシマの惨事を経験したから日本の原発は世界一安全だ」という自公政権の宣伝を鵜呑みにして、今でも真の姿を「知ろうとしない」なら、その人には、法体系は別にして、「知ろうとしなかった罪」があるのではないだろうか。
この「知ろうとしなかった罪」は原発だけでなく、焦眉の課題である「共謀罪」にも言えることだろう。
国会で「原発に反対するだけで対象になるんじゃないか」との野党の質問に自民党からヤジが飛んでいた。「そんなのは一般人じゃない!」
・・・ああ、「再稼働反対」の声は100%犯罪にされてしまうのだ。
このように、共謀罪を「知ろうとした人」は、戦前の治安維持法と同種の危険があり自由と人権が侵害されると縷々警鐘を鳴らしている。
一方、「長い物に巻かれたようなお笑い芸人の一部」が、意図的に本筋から外れた「誇大広告」部分である「テロが防げるならええのんちゃう」というような発言を繰り返す。
やっぱり「知ろうとしない罪」は重い。
歌人の永田和宏氏はかつて、
権力にはきっと容易く屈するだろう弱きわれゆゑいま発信す
・・・と詠まれている。
共謀罪は密告社会、相互監視社会をつくるものだとも指摘されている。
「知らなかった」と嘆く前に、「知ろうとして」発信することの大切さを今思っている。
星空に蛙の恋のファンファーレ
0 件のコメント:
コメントを投稿