5月29日の『文科省文書あれこれ』で、「前川前次官のペーパーはきっとレクチャー資料で、ある意味公文書以上に真実だろう」という主旨のことを書いた。
これは私の大研究の結果でなどではなく、その種の公務員世界では常識に属することだった。
それに対して菅官房長官は前川前次官の人格攻撃を証拠も根拠もなく行って印象操作をし、「圧力があったのなら現職のときに言ったらよかった」と、これもなんとなくそれらしい印象操作を行った。
当然のようにネトウヨと呼ばれるネット上の右翼がそうだそうだと尻馬に乗って囃し立てている。
確かに、前川氏は現職の時代に内部告発すべきだった。だが、それをためらった氏を誰が批判できるというのだ。少なくとも、官民を問わず宮仕えの身でそれを言える人は少ないと思う。
前川氏のいう「その時は面従腹背であった」の言葉は理解できる。
文化人、知識人と言われる人々もそれを言う時には、内部告発者を徹底的に支援できる体制を合わせて言ってほしい。
よって私はこの国の勤労者の「市民としての自立」について思いを巡らせている。
少なくとも欧米並みの市民感覚が何故成熟していないのか。
水田農業を源流とするムラ社会がそれを阻んでいるのか。
非キリスト教的なモラルの低さに遠因があるのか。
テスト偏重の教育の結果だろうか。
極まった感のある情報操作の故なのか。
そして、企業内労働組合の弱さなのか。
そんないろいろなことについて考えたり議論したりしてみたいものだ。
6月1日付朝日朝刊のトップ記事は『内閣官房参与、次官と話題に』で、内閣官房参与で、文科省OBで、加計学園理事で、同系列の千葉科学大学学長の木曽功氏が前川次官(当時)を訪れていたことを報じている。
前川氏は、「獣医学部の件でよろしくと言われた」と証言し、いっぽう木曽氏は、「(獣医学部が)話題としてでない方がおかしい」「巨大な忖度の塊だと思う」「(文書について)違和感はない。(上司に)報告するためにメモにしているような気がする」と話している。
さて、外形的にいえば、木曽氏の経歴は絵に描いたような官僚の天下りの図ではないのか(公務員の再就職について一概に天下りだと断じることには私は賛成ではないが)。
一方、前川氏が次官を辞めさせられたのは文科省の天下り問題だったはずだ。
とすると、表向きは天下り問題であったが、その実は「加計学園問題」に協力的でない前川氏の首を切ったというのが、時系列から見ても妥当な見方ではないだろうか。
安倍官邸のやり方はますます以てえげつない。
妻探す磯鵯の声愛し
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