それに比べると石垣は本物の歴史的構築物だが、それとて元和6年(1620)に工事が始まった徳川の大坂城である。
天正11年(1583)に秀吉が着手し、慶長20年(1615)に大坂夏ノ陣で落城した「三国無双」の大坂城はその片鱗すら見つけられないが、一般観光客は天守を見上げて「さすがは太閤さんや」と感心している。
大阪が好きな私などは「それもよし」と黙っている。
秀吉の大坂城の石垣は、昭和34年の調査と昭和59年の調査で、今のお城のおおよそ10m近い地下にそのまま残っている、つまり、埋められていることが解ったが、調査後はまた埋め戻されていた。
それを再び掘り起こして公開する取り組みが進んでいる。
その現地説明会があったので行ってきた。
場所は現天守閣の南東で、豊臣大坂城の「詰ノ丸」(本丸)の角になる。
自然石を多用した野面積み(のづらづみ)で勾配には反りがない。
徳川大坂城の石垣に比べてなんと素朴な感じがするものだ。
1583年から1620年までの37年間の間の技術の進歩には驚嘆するし、家康、秀忠の徳川の力を再確認する。
今回の現地には自然石に交じって石臼や寺院等の礎石もあった。
もしかして難波宮の礎石の一部ではなどと想像が膨らむ。
秀吉は天下統一の過程で自治都市堺の環濠を埋め立てるために近くの古墳を壊して土砂を確保した可能性がある(中井正弘著「仁徳陵」)と指摘されているから、全くないこともないだろう。
最後に、三光神社の「真田の抜け穴」は自然石ではなく切石だった。
さて、その真相や如何に。
ネットから |
ネットから |
娘から「大坂城に行ってたやろ」と電話があった。
返信削除テレビのニュースに映っていたらしい。
この間の「節分の鬼」とは違い、「覗き込んで写真を撮っていた」という真面目なものなのでホッとした。
見ました、PCのNHKwebニュースで見れます。
返信削除さて、ネットの写真でお解りのとおり、見た目は非常に無造作な石積みですが、角はキチンと算木積みになっております。この時代のものを穴太積みとは言わないそうですが、穴太衆も大いに関わっていたのでしょう。
返信削除無造作に見える裏には「石の声を聴く」と言われる石工集団の技術力があったのでしょう。竹田城など近頃は石垣がちょっとしたブームだそうです。