前回のブログで私は「男女像の道祖神は集落内の豊穣」を願ったものだろうと書いたが、その昔、唐古・鍵考古学ミュージアムに行った時の思い出も交えて、もう少し補足をしたい。
弥生時代を代表する遺跡のひとつであるここ(ミュージアム)には、有名な、シャーマンと思しき女性が下半身を露わに祈っているような絵画土器がある。
ボランティアガイドはジョークでなく「スカートの下から覗き込んで描いたのだろう」と真剣に説明したが、それはつまらぬ現代人の想像だろうと私は反論した。
これは信念をもって描かれていて便所の落書きではない。
女性の下半身はこの世の生の入り口であり豊穣の源だと考えられ、憑依したシャーマンは神や悪霊たちに向けそれを露わに突き付けることによって僻邪し、豊穣の約束を取り付けようとしたに違いない。
これは縄文からの一貫した太い信仰の流れであるし、天宇受売命(アメノウズメノミコト)しかりだろう。
不確かな記憶だが、南方熊楠と柳田國男が「宝貝がなぜ貨幣となったか」について論じた折、柳田が専らその希少性に着目しただけであったのに対し、熊楠は、その女性に似た形態からくる神聖性が柳田には判らなかったと言っているような文を読んだ記憶があるが、ミュージアムのガイドにはそれによく似た印象を受けた。
結論として、男女像の道祖神は僻邪と豊穣を祈る賽の神の完成形である。
なお、我が家の道祖神はさらに現代風の「なかよし地蔵」という趣になっているから、人がそれを高砂と考えようが、信愛や友好ととらえようが自由だと思っているが、陰陽の統一は道教の根本的思想でもあって実は奥が深い。
その類で「老子」を思い出して埃にまみれた本を引っ張り出してみましたら第6章「谷神不死、是謂玄牝之門、是謂天地根、云々」とありました。要するに母性は物を生み出す力でその「門」は天地の根である。
返信削除でも私には「老子」は難しすぎて途中で本をホッポリ出してしまい埃にまみれてしまいました。
「陰陽二気が交わって和気を生じ、その和気が万物を生じる。玄牝はすべての源、そこを通って「道」は始まる。」とは、なんと素直な世界観なのでしょう。正反対のような理屈で半生を過ごしてきて、今頃ようやく心が少し自由になってきたように思います。
返信削除道教の原初的な姿は①祭祀②祈祷③まじない(禁呪)④のりと(祝詞)⑤おふだ(護符)⑥かみがかり(憑依・霊媒)⑦お告げ(神託・託宣)で、これが「鬼道」と言われていたものですね。
返信削除そして卑弥呼は「鬼道につかえよく衆を惑わした」とは「魏志倭人伝」。
この土器の絵画を見て、これは巫女だと思うのが自然ではないでしょうか。
となれば、「スカート覗き」はないでしょう。ガイドさん。