2012年3月10日土曜日

都邑を守る思想

   7日のブログで「十三塚は悪霊の侵入を防ぐ防塁ではなかったか」と書いたが、村の入口に土を盛り、石を積み、木を立て、陰陽の石製品や石像を刻し、あるいはいわゆる注連縄(勧請縄)を張って村の安寧を鎮護しようとする信仰を想像するのはそんなに難しいことではない。

写真1
 現に、この21世紀の現在も、この南yamashiroの一部集落には勧請縄の風習が立派に残っていてある種感動をさえ覚える。
 それが道路交通法上如何に解釈されるかなどと言うことは実につまらぬ議論である。

 写真1は、先日オオタカの記事を書いた木津川市の鹿背山地区であり、我が家からもそれほど遠くない。
 村の入口の道路上に堂々と掛
写真2
けられていて村を不浄のものから守っている。

 写真2は、笠置町の飛鳥路地区へ向う木津川の沈下橋。車で行くのはちょっとスリルがある。

 写真3は、その橋を渡ったその地区の勧請縄で、道の上から布目川をまたいで掛けられているのを村外に向って撮影した。
写真3
 陰陽の縄細工などは即物的だと軽蔑せず、素朴でおおらかな信仰だと微笑みたい。

  それ以外にもいろんな縄細工や木製品が吊るされていたが浅学にして一つ一つの意味は判らない。
 こういう縄の細工物は地方地方でいろんな言い伝え(理屈)があるようで、①大きなわらじ等を吊って厄鬼を威嚇する。②米俵等を手土産に厄鬼に引き返してもらう。③で邪気を掃き出す。④鍋つかみで福をつかむ。⑤子孫繁栄や豊作に関わる諸道具?を吊るして祈願する。等々という先人の素朴な知恵や願いであるようだ。
 とすると、未来に、この勧請縄の真ん中にガイガーカウンターを模した藁細工が吊るされることのないことを祈りたい。

   あの日から1年が経過した。
 真実は閉ざされたままだ。
 彼の地の『国民』は報われていない。
 「風化を待てばよいのだ」と意図的であるかのようだ。
 現代の厄鬼は勧請縄では防ぎきれない。
 で、マイカーの後ろ窓に手づくりステッカーを取り付けた。
 これは私のささやかな勧請縄である。
 そしてほんとうの意味で現代版勧請縄であるに違いない「世論の鎖」の呼びかけである。

5 件のコメント:

  1. 明日、勧請縄を結びに(集会参加者の手を繋ぎ合って)行ってきます。

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  2. !合言葉が「勧請縄をつなごう」では消極的ですかね。ハッハッハ
     そも、若い都会の方々には「それって何?」でしょうし。
     楽屋オチ的すぎますね。

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  3. 昨日の集会、まずまずの参加者で盛り上がりました。来賓挨拶の宮本憲一さんが「40年前、ここ、扇町で12,000人の公害反対の大集会があり、ここから運動が広がっていった。今日、この大阪から「脱原発」のたたかいを大きく広げていこう」と呼び掛けた。40年前といえば、1972年、少しズレているが1971年の「公害知事さん、さようなら、憲法知事さん、こんにちわ」で黒田革新知事が誕生した頃のことであろう。第1期、第2期の時も「大阪に春を呼ぶ大集会」が今は無くなった「扇町プール」で開催されたことを思い出しました。
    参加した当時を知る年寄りと、まだ生まれていなかったろう若者夫婦と天五の「うまい屋」でたこ焼きを食べて、勧請縄をつないできました。

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    1. 私も昨日は正親町公園に久々にパレードにも参加。
      でも報道は一切無しですね・・・。

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  4. !あまり論理的には整理出来ていないのですが、フクシマ直後は政府の「直ちに影響はない」報道のせいばかりではなく、何か今、脱原発を言うのは事故という失敗を起した「弱者」をいじめるようでためらってしまうような変な感情が世間にあったような気がします。
     しかし、一喜一憂ではなく、この1年間で世論は静かに動きつつあるという感触を感じています。
     ひげ親父さん、匿名さん、コメントありがとうございます。

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