2026年2月21日土曜日

黒塚古墳の時代

    日本書紀が第
10代と書いている天皇の名は、ミマキイリビコニエであり、諡号(しごう・おくり名)は御肇国天皇(はつくにしらす天皇)。後に付けられた漢字の名前が崇神天皇である。
 この御肇国天皇という諡号からも、神武天皇の物語と欠史8代の天皇というプレ大王時代を経て、事実上の初代大王(天皇)は崇神天皇であろうと言われており、日本書紀崇神紀には、プレ大王時代を含む大和王権の最初期の征服戦争の記録と記憶が反映しているとみられる。
 日本書紀以前には、現存はしていないが「帝紀」などがあったのは確かであるから、少なくとも歴史の欠片は書紀にはあるはずだ。
 考古学的には、巨大な前方後円墳である箸墓古墳(290m)が大和の東南部に最初に築造されたのち、前方後円墳の時代が始まり、その次の次の巨大前方後円墳である行燈山古墳(242m)が崇神陵だとの意見が多いが、黒塚古墳(全長約134m)は、同時期もしくはそれ以前にが築造されている。
 岸俊男氏による旧豪族分布図によると、以上の古墳は全て三輪山の麓の纏向にあり、北に接して物部、その北に柿本や和珥などの豪族がいたとしている。
 それらの年代であるが、魏志倭人伝では卑弥呼の死は250年ごろ3世紀半ばと考えられ、箸墓古墳は3世紀中盤~後半と考えられている。これらのことから、倭人伝の卑弥呼の死後大いに乱れその後台与が立ったころから権力の集中が始まったのではないか。
 ただ、倭人伝と記紀は合わないので、神聖政治の台与の時代の後、本格的に権力を集中した大王の時代が始まったとも考えられ、その先頭に崇神がいたと考えられる。
 ということで、17日の記事の補足ナリ。
 写真は黒塚古墳石室発掘時のレプリカ。

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