そこに「能登は今風の感覚では列島の先っちょだが北前船など日本海海運ルートからするとど真ん中の中継地」と書いた。
写真の本は「北前船」などよりもはるかに古い古代史の本だが、タイトルは的を射ている。
24日の朝日朝刊に神里達博氏の能登に関する小論が掲載されていたが、そこには次のような指摘があった。
🔳 7世紀末には、日本の対岸に渤海が興る。現在の北朝鮮・中国・ロシアにまたがる国家である。その後約200年の間にこの国は、一説には34回も日本に使者を送ったという。日本海側の各所に来着したが、能登との関わりも深かったようだ。実際、8世紀に日本側から渤海に送った使節「遣渤海使」の船には「能登」と名付けられていた。
・・・・北前船は、運賃をもらって頼まれたものを運ぶ「運賃積」とは違い、船主が自ら商品を買って運搬し販売する「買積」を行ったことで知られる。これは当然、リスクは高いが利幅も大きく成功すれば大いにもうかった。
奥能登の豪農・時国家もその一つで・・栄えたという。
網野善彦は、この時国家の研究も含め、農業以外の仕事に従事していた人々に光を当てた歴史家として知られる。・・・・🔳
ということで、時国家のことや網野善彦氏のことは別途書き続けたい。
この地図をぼや~と眺めていると、北九州、出雲、越の文化が浮かび上がってくる。
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