先日テレビの『英雄たちの選択』で、平安時代から続いていた不正確な中国輸入の暦を800年ぶりに日本独自の正しい暦に改暦した渋川春海(1639ー1715)を紹介していたが、それを見ていて感じたのだが、旧暦(太陰太陽暦)では大の月と小の月が年ごとに変わったり、そもそも閏月があったりして、「1年」というものが固定されていなかった。
つまり、現代の感覚では「数え年など変だ」「なぜ満年齢でなかったの」と感じるが、旧暦では満年齢という発想すらできなかったのではないだろうか。
なので、そういう歴史の話と照らし合わせると、毎年正月元日に歳神さまが1歳という歳を加えてくると考えた思考方法は決して幼稚ゆえのものではなく、大いに合理的な一案だった。
重ねて言うが古人は元日に歳神さまが「来てくれる」と考えた。そのためには神の依代(よりしろ)が必要で、門松はその依代だった。・・という文化がこの国にはあった。
そういう神々との交信を馬鹿にした現代人は、神の道どころか人の道を踏み外しつつないか。・・とわが家では例年どおり玄関先に門松を立てている。(といって松の枝を左右に1対だけ)
写真の本「天地明察」、天文学や自然科学が好きな方、歴史が好きな方、文学が好きな方に冲方丁の名作。一読をお勧めする。
本日は大節季、明日になればおめでとう。この1年、拙いブログ(本年は398件)にお付き合いありがとうございました。
なお別件だが、スマホにはQRコード読み取りアプリを入れられていることだろうが、もし未だの方は入れておいてほしい。基本的には無料。そのお願いの理由は明日。
2023年中に度々自分自身に言い聞かせたこと、その①「カール・マルクスはジャーナリストであった」、その②「人生後半で大切なのは表現すること」。どちらも遠く及ばなかったが、まあまあそちらに向いて歩んだ1年ではあった・・と自分自身を労わりつつ今日は大節季。皆さま、よいお年を!
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