今年は与謝野晶子生誕140年になるという。
わが高校の大先輩でもあり、在校中から私は『君死にたまふこと勿れ』をそらんじていた。
この詩が発表されたのは明治37年(1904)で日露戦争に出征した弟の無事を祈るものである。
言葉尻から反戦歌などと言うのは今風で、もっと素朴な性格の歌であったが、当時は国粋主義者はもちろん権威ある文壇からも激しい批判を浴びた。
その批判に対して晶子は『明星』に「ひらきぶみ」を書き、一歩も引かず戦争の悪を説き、人として当然の「まことの心を歌ってこそ歌」と反論した。
岩波文庫『与謝野晶子歌集』(与謝野晶子自選)の「あとがき」には、若い頃は薄田泣菫、島崎藤村の模倣に過ぎなかった。後年の私が「嘘から出た真実」と述べているが、本人には申し訳ないが、若い頃の一途な歌が心を打つ。
頬にさむき涙つたふに言葉のみ華やぐ人を忘れたまふな
晶子に立ちはだかった明治37年は「近代化が善」であったというかも知れないが、基本的に女性は一人前の人間扱いがされていなかった時代である。
それに比べての今日は基本的には進歩している。
なのに政治の天井部分でセクハラは継続し、メディアの一部は被害者を責めている。
自衛隊員は紛争地に派遣され、真実の記録は隠蔽されている。
生誕140年、私たちは彼女の勇気を心から見習うべきときだろう。
ふるさとの潮の遠音のわが胸にひびくをおぼゆ初夏の雲
海恋し潮の遠鳴りかぞへてはをとめとなりし父母の家
君死にたまふことなかれ
返信削除(旅順の攻圍軍にある弟宗七を歎きて)
與 謝 野 晶 子
ああ、弟よ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ。
末に生れし君なれば
親のなさけは勝りしも、
親は刃(やいば)をにぎらせて
人を殺せと敎へしや、
人を殺して死ねよとて
廿四(にじふし)までを育てしや。
堺の街のあきびとの
老舗(しにせ)を誇るあるじにて、
親の名を繼ぐ君なれば、
君死にたまふことなかれ。
旅順の城はほろぶとも、
ほろびずとても、何事ぞ、
君は知らじな、あきびとの
家の習ひに無きことを。
君死にたまふことなかれ。
すめらみことは、戰ひに
おほみづからは出でまさね、
互(かたみ)に人の血を流し、
獸の道に死ねよとは、
死ぬるを人の譽れとは、
おほみこころの深ければ
もとより如何で思(おぼ)されん。
ああ、弟よ、戰ひに
君死にたまふことなかれ。
過ぎにし秋を父君に
おくれたまへる母君は、
歎きのなかに、いたましく、
我子を召され、家を守(も)り、
安しと聞ける大御代(おほみよ)も
母の白髮(しらが)は増さりゆく。
暖簾(のれん)のかげに伏して泣く
あえかに若き新妻を
君忘るるや、思へるや。
十月(とつき)も添はで別れたる
少女(をとめ)ごころを思ひみよ。
この世ひとりの君ならで
ああまた誰を頼むべき。
君死にたまふことなかれ。